かつたことを感謝したのである。
夏の終りごろ、お葉の家は一時|湯殿《ゆどの》のない家に引き移らねばならなかつたのである。彼女は母親について新しい家に行つたのであつた。けれどもお葉は色々道具と共に荷車の上につまれた義足のことを悲しく考へたのである。白い袋に入れられた義足がしちりんやお釜の側に積まれたのを、彼女は竹垣によつて見てゐる時瞳が曇つて來た。
「なに大丈夫だよ。上に莚《むしろ》をかけるから、少しも見えやしないよ。」
お葉の兄は荷物の上に繩をかけながら言つた。
「お孃さん大丈夫です。見えたにしたつて、誰れもお孃さんの義足だつて知る奴ありませんからね。」
車屋は兄について大聲に言つて笑つたのである。
お葉は母親とならんで電車のなかに腰を降した時、賑かな街の坂の上を登つてゆく車のことを思つた。そしてその中に積まれた足袋をはいてる義足は矢張り道具であるのだと思つたのである。血も肉もない骨もないのだつた。腿《もも》のなかは空洞になつて、黒い漆《うるし》が塗つてあることを考へた。膝から上が桐の木で、膝から下が朴《ほほ》の木で作られて足の形を取る時に、かんなで削つたことを考へたのである。
木で作られた足は無雜作に折られて、鋭いかんなは其上をすべつた。白い布の上に澤山落ちたかんなくづが、そこに俯向《うつむ》いて横坐りに手をついてゐたお葉の瞳が茫然とうるんだ時に、一面べつたり血しほが流されてるやうに見えたのであつた、牛肉のやうに肉がぽつぽつと切れて、白布の上に落ちたのである。
やがてお葉が空を見上げて再び前を見た時に、白い足の上には氣味の惡いやうな木目が彫物《ほりもの》のやうに長くついてゐて、觸れた指先には無心な冷さが傳はつたのであつた。
一月の後になつて、それは勞働者の脛《すね》のやうに代赭《たいしや》色のつやつやした皮で張られて來た、足は白い消しゴムのやうに軟く五本の指が動くのであつた。お葉はその義足をつけた時、衣の中に何といふ恥しさを感じたことだろう。肩についた皮や、胸や腰のバンドがお葉の動く度に鳴つた。柔らかな初毛《うぶげ》のはえた肉色の一脚にならんで、それはつやつやと手垢にみがかれた骨董品のやうな一脚であつたのだ。またそれはくけだいのやうにピンと折れては、カチンと延びる無意味な器械であつた。その足はなに物に強くふまれても、棒のやうにいつ迄もながく立つてゐた。
お葉がすべてのバンドを解いて、義足を露骨に投げ出した時、すべての罪、責任から逃れたやうな安堵《あんど》の息のなかに、そのまま昏睡しようとした。
お葉は新しい家の二階に上つて見たのである。夕ぐれの藍色の空に高い高い浴場の煙突が聳《そび》え、白いほのかな煙りがゆるやかに流れてゐた。そして何物もない靜かな空は象眼細工のやうに細い月がかかつてゐたのである。お葉の心はいづことなく天地のなかから響くどよめきのなかに淋しく沈んだ。新しい浴場はいま青い瓦斯《ガス》のいろに美しく浮き出て、そこに花のやうな香が立ち舞ふのである。お葉の瞳はいつか物珍らしげに向ひの家を見下ろして、その格子窓から洩れる三味の音を聞いてゐるのであつた。それはなんの歌とも解らない。しかしその調子のままに動いてゐた心が、やがてばたりと切りはなされて、お葉は茫然《ぼんやり》した。三味はやんで、やがて格子ががらりと開いたと思つたら、繻子《しゆす》の細帶を結んで唐人髷《たうじんまげ》に結つた娘が、そのまま駈け出して湯屋のなかに吸はれるやうに入つたのである。
「自分の世界とはすつかり違つてゐる。」
お葉はなんとなくそんな事が考へられた。
自分の身が實際であるならば、いま自分が見てゐる世界は繪のやうな氣がする。繪の世界が現實ならば、自分はいま夢を見てるんだ。彼女は強ひられたやうに、そんな考が心のなかに起るのを感じながら、幾多の美しい肉體が亂れ合つてゐる浴場の霞のやうに立ち登る湯氣のなかを想像したのである。
その後、お葉は母親と二人靜かな朝の冷たい湖のやうな浴場の姿見の前に立つて、丈長い帶と赤いしごきを解いたのである。
三越の廣告の女は壁の上から黒い瞳を投げて居た。着かへたしぼりの浴衣《ゆかた》のいろが美しく鏡のなかに浮き出た時、お葉は物かなしい瞳で、ぢつと鏡のなかを見守つたのである。
一脚の足は運ぶことを知らぬ。兩手の指が強く硝子窓の棧にふれながら、漸く湯つぼのへりにたどりついた時、母親のくんで流すお湯は、彼女の足の裏をおびえるやうに、そして快く流れたのであつた。ぬれようとする浴衣の裾を、母親が容赦なくまくり上げた時、反抗する手段のないお葉は、強いそして物かなしい樣な瞳に母親を見返つたが、何《ど》うしても浴衣はそこでぬがねばならないのだつた。すべてを奪はれたお葉は慘忍な健康者の態度を見入りつつ、海底に棲《
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