す》むといふ人魚の樣に、似るべくもない四肢の醜さをなげき悲しんだのである。みなぎつた朝の日光が、高い玻璃戸から側の窓硝子から輝かに清く靜寂の浴場のなかに漲《みなぎ》つて、湯つぼは碧色に深く濃く湖のやうに平かであつた。お葉は初めてわが肉體の美しさと、なつかしさと、あまりに廣やかな周圍から何物かの迫つて來る恐れを感じたのである。
 彼女は絶えず肩から桶のお湯を流し、あまりに露骨にこの明るさのうちに解放されたる肉體を見て戰慄《をのの》いた。
「まあ、お前は肥《こ》えたねえ。」
 母親はながく見ないお葉の身體に驚きの聲を放つたのである。胸の肋骨はゆたかな肉にかくされた。衿元《えりもと》に筋のいるくぼみは盛り上げられて、肩はまるく兩腕はながながとのびてゐた。そして花のやうな乳房の上にお葉は睫毛《まつげ》をながく伏せたのである。
「いいお湯、なんといふ氣持のいいお湯だらうね。お前一寸お入りよ。おさへてて上げようか。」
 衰へた母親の兩腕はお葉の前にのびたのである。しかしお葉は湯ぶねのへりに腕をなげかけて、靜かなお湯の面に指を觸れながら、底にうつるわが黒髮のさまを見つめたのであつた。そして祕《ひそ》かにこの表面に再び浮き上ることの出來ない底があつたならば、いまに自分は入ることがあらうと思ふのである。いま朝日は玻璃の窓を通してお葉の肩から胸に斜に影を投げた。黒髮が綾に光つて、青い簪《かんざし》の玉は、そこに陰鬱な影を投げてゐた。
 お葉はいまあまりに緊張《はり》きつた一脚の足の肉にふれて驚ろいたのである。足は常に精一ぱいの力に張りきつて、そこに少しのゆるみもなく延びてゐるのだつた。この脚が私の全身を支へるのだ。支へるといふことを知つたこの足の醜さよ。しかし彼女の右の手は柔かに白い、丁度日蔭の草のやうに、育たない短き肉塊の右足を押へてゐるのだつた。それは本當に赤子のやうに、いぢらしく慄《ふる》へてゐた。そして温い血しほが、ゆるやかに流れてゐたのである。お葉は生きんとする人間の醜さを考へた。殊にだんだん畸形にかはる自分の肉體を、いま目の前に見せられて淺ましく思つた。
 ある人がお葉に言つた。
「だんだん畸形に育つんだね。」
 その時彼女は松葉杖をつく爲めに、柔かな掌が足の裏のやうに變つてゆくのを感じて、膝の上の手をまさぐつてゐたのだつた。
 お葉は夕暮その家を辭して、石垣の上に靜かなオルガンの音を耳にしながら、細道を一人かなしく家に歸つたのである。どんなに醜くなつても、生きてゆかなけりやならないのだらうか? いま自分の生と自分の肉體を最《もつとも》美しく終らせたいと思ふは唯一つそこに死があるばかりである。お葉は矢張り死ぬのであつた。
 また畸形の肉體に盛られた心は、矢張り畸形にしか育たない。彼女は精神の畸形なる天才や狂人のことを考へたのであつた。けれども天才は現世に幸福でなかつた。狂人は如何に幸福であらうとも、肉身のものの苦痛をどれだけ増さねばならぬかと云ふことが解らない。そして醜い肉體は、世の中に存在してゐるのだ。お葉は醜いことを見たくも知りたくもない。死は清く美しい、そして永遠に尊い。お葉は靜かに三十三の死を思つて、微笑んだのであつた。
 水に梳《くし》けづられた髮が青空の下に輝いてゐた時、彼女は杖によつて道を歩みつつ、その杖が新らしく黒く艶やかに塗られてあることを見て、安心したのであつた。自分のすべてを習慣と經驗とによつてよごしたくない。古くしたくない。
 お葉は松葉杖の古きによつて、わが癈疾のいにしへをしのぶことを悲しむ。彼女が、いま五年後にその災《わざはひ》を思ふ時、痛みは古く思出の淡いことを恐れた。自分の災は新らしい、自分の痛みは新らしい。
 お葉はいつか青山の墓地などを車で通つた時、よごれた繃帶を卷きつけた白木の松葉杖に身を持たせて來た癈兵を見たことを思ひ出したのである。
 彼女は縁に出て手の爪を切つた。そして足の爪を切つた時に、いづこにか一脚の足の爪が櫻いろに美しく切られて、花のやうに置かれてあることを考へた。それは空の美しい日であつた。開かれた窓に木の葉が散つてゐた。お葉はベッドの上に起きなほつて、その前日痛める身體を清める爲めに、紫いろの湯に浸されたことを考へた。お葉はその時清らかに終るべき身の靜けさに、剪刀《はさみ》を取つてすべての不潔を切り取つたのである。手の爪は美しく取られた。やがて彼女は繃帶に卷かれて、わづかに五本の指先のみ出てゐる右足の白い爪を、靜かに切り取つたのである。そこに嘆きもなく再び見ることなき瞳を、茫然と開いてゐたのである。
 その時白いお茶の花を瓶にさして呉れた看護婦が、銀いろの剪刀《はさみ》を持つて來て、ドアを押した。そしてお葉の爪を見たのである。看護婦は驚いたやうにやや誇張して、
「まあ、綺麗、おとり
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