ら母を呼んですがつたことであらう。お葉はふとそれを考へて微笑を感じたが、また人知れぬ死のよろこびを考へてゐたのであつた。
 それからお葉が矢來垣の靜かな片道を歩いた時、そこに瞳の大きい淋しげな二人の女の子が、さも滿足したやうに、
「お父樣とおんなじだわね。」と瞳を見合つたのである。
 そして睫毛《まつげ》をしばたたきながら、仰ぐやうにして再びお葉を見上げたのであつた。お葉は遠く幼子の影を見返つて考へた。
 あの子の父親は、淫蕩の爲めに不具になつたのであらうか。またそれが不意の風のやうに起つた禍《わざはひ》であつたのであらうか。また自分のやうに靜かに襲つて來た病魔の仕業であつたかもしれない。
 彼は最早死といふことを思つてはゐまい。日々生きる爲めに、日々種々な種をまいて來たのだ。彼の魂や肉體は分けられて、いよいよ根深く大きくなつたのであらう。
 彼は自分一人を殺すことが出來ない。彼が死を思立つ時、父親より分けられた魂を持つた物淋しき多くの子供や、彼と融合して生きて行く女は彼の如く足を失ひ手を失ふ嘆きを見るのである。彼は死を許されずして、次々の希望に生きてゆく時不意に奪略されるであらうと思つてお葉は見しらぬ彼の爲めに暗い心を抱いて悲しんだのである。
 お葉はまた賑かな街を歩いた。往來の人が彼女に瞳をそそぐ爲めに、つまづくのを見た。またいろいろなビラの下つた活動寫眞の横町から兩足のない乞丐《こじき》が兩手をついてのそりと出て來たことを覺えてゐる。
 お葉は最初身がすくむやうにおびえた。
 しかしやがて心は恥しさと腹立たしさに燃えてゐるのであつた。その時お葉が眞に幸福な滿足な死を思ふ心がなかつたならば、そこにしばらく嘆き疲れたかもしれない。お葉はやがて考へまい、見まいとして歩いたのであつた。
 それは雨上りの日であつた。
 お葉は道具屋の軒下を伏し目に歩いてゐた。そしてふと目の前を見た時、堪へられない恥しさを感じて、深く瞳を閉ぢたのである。それは往來の眞中をお葉と同じ松葉杖に身をよせて來た少女を見たからであつた。頭には桃いろのよごれたリボンがつけてあつた。その眼は物珍らしく四邊《あたり》の店頭に走つてゐたのである。短い着物の裾からそれは丁度白木の棒のやうに長く一脚の足が出て、それにはまた高い一つの足駄がついてゐるのであつた。そして杖を支へる木のやうに、松葉杖が少女の脇下を兩方からつり上げて丁度木とゴム製の玩具のやうにクルクル前の方に進んでゐるのである。お葉は本當に恥しいものを見たと思つて、一目見るなり肩をつぼめ、裾ながく着た着物の中に一脚の足をすくめるやうにして、首を垂れて歩いた。往來の人が多い。往來の人はすべて袖を引き合つて少女を見た。お葉は心の中に一心になつて、その少女と自分が見くらべられることを避け樣とした。人々がもしあの少女を見たならば瞳をめぐらして自分を見出さないで欲しい。もしも又前から自分を見てゐたならば、踵《くびす》を返してあの少女に目をとめないで欲しいと祈つた。しかし人間の眼は自在に動く。彼《か》の少女を捕へた好奇の瞳は、やがて軒下を憚《はばか》つて歩くお葉の亂れた銀杏返しから、足元に到つたのである。そして裾にからまつて見えかくれする足は玩具のやうに進んだ少女と等しくあることを見出して、瞳を見張つた。そして誇りかの娘は、連れそつた男の袖を引いて小聲に何か囁いたのである。二人の眼は險《けは》しく先にゆく少女の影と、行きすぎたお葉の姿を見くらべた後、彼等の心は少しの動搖も起さず、平和に道を歩いて行つたのであつた。お葉は人の少い通に出た時、輝《かがやか》しい瞳を上げて大空を仰いだのである。そして、「私は本當に死ぬんだもの、三十三には死ぬんだもの、」と心のうちに嬉しく叫んだのである。誰れも知るまい。私が死ぬなんて云ふことも、私の死がどんなに幸福であるかといふことも、すべての人は知らないんだ。
 彼女はやがて歩き出しながら、先刻《さつき》行き違つた少女のことを考へたのである。あの少女はまだ死なんて云ふことを考へる事が出來ないに違ひない。從つて自分がいま生きてゐるといふ喜びを自覺しないで、尊い生を無意義に必ず虐《しひた》げられてあることを思つて悲しんだのであつた。
 お葉はあく迄死を信じた。三十三の年に於いて自らの死を信じて疑はなかつた。
 彼女の死は虚榮だかもしれない。反抗だかもしれない。復讎《ふくしう》だかもしれないのだ。お葉は年齡の醜い影を見たかなかつた。また嵐が草木を折るやうな奪略を恐れた。彼女が三十三に於いて眞に死に得た時は、その三十三の生がどんなに華やかな力づよいものとなるであらう。その時の死は勝利の凱旋《がいせん》である。死を定めてすべてを擲《なげう》つたのでなかつた。お葉は死を定めてすべてに光明を見出したのである。
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