く山を海を隔てゝゐな[#「な」はママ]ので、赤ん坊は生れるとすぐに二人の若い兩親の手ばかりで育つた。巍は子供を抱いて子守唄を歌ひながら、部屋の中を歩きまはつた。そして幸子の小さな寢床を二人の間にのべた。無經驗な二人は經驗者より以上の敏感と神經質とでもつて、我子の上を見つめ、我子の上をかへりみた。二人は傭ひ入れた女中にも、赤ん坊のことはさせなかつた。
 二人ははじめ各ひそかに赤ん坊の肉體をくまなく注意深く見て、少しのきずも少しの間違もないのを見ると、非常な安堵と感謝の心持とを深く感じた。多緒子はおどおどして赤ん坊と二人きりの時、幾度となく赤ん坊の縮こまつてる兩足を、そつとのばしてはくらべて見た。一分でもちがつてゐたら、成長してから一寸の違ひにもなるであらう。多緒子は常にある恐怖を持つて我子、我夫、すべて愛するものゝ足といふことを考へてゐたのであつた。
 けれども幸子は二人の間に、本當に初夏の若葉のやうに快よく目に見えて幸福さうに育つた。二人はふとした休息の時に、寢入つてる幸子の顏をのぞき込んで、新らしい果物のやうな、甘い快い香ひをかぎながら、微笑み合つた。
『なんて完全に心持よく大きくなつたらう。』
 巍《たかし》は感心してよろこびに堪へられないやうに云ふ。すると多緒子もすべてを忘れて、嬉しさうに深い息をつきながら、
『本當に、なんて可愛《かはい》んでせう、どこつてかけた所のない、この肌の氣持のいゝこと。』
と、なにか云ひたいことが、とても口で事はれないと云つたやうにある感慨にみたされて云つた。二人はそのひまもぢつと幸子を見てゐた。やがて巍は、多緒子の顏を見ながら云つた。
『二人の愛のなかに産れた子供なだもの[#「なだもの」はママ]、全く全く純な愛、清らかな肉體から生れた子供だもの。だから幸子は、こんなに完全で氣持がよくきれいなんだよ。それが普通なんだもの。』
『本當にね。』
 多緒子は涙を浮べてうなづいた。そして愛するものゝ爲めに、彼女は出來るだけの心づかひを持つて、一生懸命に働いた。
 けれども梅雨《つゆ》の終り頃になつて、すべてが濃い青葉につゝまれてしまつた頃、幸子《さちこ》は小さな咳を二つ三つし初めた。彼女たちは、子供にとつて恐ろしい百日咳の話しを幾度となく聞いたので、巍《たかし》が[#「巍《たかし》が」は底本では「巍《たかし》を]子供をつれてすぐ近所の小兒科
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