思ひ出した。
『秋だつて云ふのに、僕は、綺麗にのびた草の上に、無上の光りに輝いてる花の廣い野を見てゐます。』彼女は、瞳をなかば閉ぢた。そして、その中に彼とおなじ、花の廣い野を見ることが出來た。また、『二日の日曜日には廣い/\、野に行きませんか。二人が開くサンドイッチの上に、やはらかい煙りのやうな雲の影がすう/\と通るんですね。あの本を二人で大きな聲を上げて、讀みませう。二つの呼吸が一つのまるい温さになり、二つの呼吸が一つの長い大きな呼吸《いき》になつて、涙の出るやうなうれしさを感じたい、遠くから見たら、二人が秋草《あきぐさ》と一緒に搖れてるんですね。水のやうにけざやかな秋の空は、美しい光りを孔雀の翅《はね》のやうにひろげて、その中に憧憬の歡樂を夢みる二人は、本當に幸福なんですね――本當に二人を母のやうに從順に、氣をくばつてくれるやうな、場所がほしい。』
彼女は、これ等の文句を頭の中に、くりかへしながら、目の前に孔雀の翅《はね》のきらびやかな蔭を見た。そして、彼女がいまかうして戀人と、そのみどりの野を、花の野を求めに行かうとするまでには、その手紙は幾度繰りかへされて、彼女の瞳に輝きを與へたことだらう。戀は、彼女の心に死を願ふ病める幽欝の夕の、窓に求めた白い花であつたのだけれども、野の幸福を求める心は、光りのやうに白い花を赤く輝かしたのだ。
しかし、その光りは淡い歡樂の憧憬だつた。夕の光りのやうに、夜のかなしみはやはり、彼女の心の背後にあつた。そして、彼女の弱い肉體に征服された心は云ふ。『すべてが寂寥に、終りはしないか。すべては悲哀に、終りはしないか。』彼女は、淡い混亂の幽欝に捕はれて、なやましい心に何事かを言はうと、戀人を見た。
彼は、靜かに股にはさんだステッキの上に、兩手をかさねて、動かないものゝやうに、窓の方を見てゐた。その瞳は、いかなる色にかゞやき、いかなる影をやどしてゐるかは、解らない。
彼女は、ふといま言ふべき言葉が、かなしみ以外に出ないことを恐れた。彼女に、戀人は悲しみを最も厭ふ人のやうに見えた。この幸福を求めに行く時に、かなしみの言葉は、彼の心を傷つけるかとも思はれた。彼女は晴れやかな、輝く心にならうとつとめた。そして、彼女は默した。
けれども、彼女には、いまだ手も觸れたことのない、戀人の心は神祕であつた。沈默は知られざる淵であつた。しかしまた
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