めた。彼女は、そのあとに從つて、ひそかにかなしい杖の音を立てたが、危さと苦しさと、弱い恐れとかなしみが、彼女のすべて[#「すべて」は底本では「すべで」]を圍繞《ゐねう》した、けれども、彼女は、はずむ息を靜めた。苦しさが醜さを、ともなひはしないかと、恐れたのであつた。そして、只その瞳に戀人の足元を見ることが出來たから、涙のやうな微笑をうかべて、無言のまゝ階段の上に、足をすゝめた。
 漸く彼女が、階段《きざはし》を降りて地上に立つた時、ふりそゝぐやうにかぶさる、秋の強い日光の黒い木棚のそばに、戀人の青い衣の輝きを見た。彼は、降りて來た階段の高さを、振り仰ぐ瞳のなかに、彼女を見た。彼女の蒼白い頬には、瞳のあたりまで紅《くれなゐ》の色が上つてゐた。紫に輝く髮の上に、重たい光りのおもさを感じてゐるやうであつた。うつむいたまゝ足元の影を見つめてゐる。そして、彼女の黒塗の杖は、銀いろに輝いてゐた。
『彼女は、かなしんでゐる。』さう思つた時、彼は、彼女に對して自分の感情をつたへる、言葉を一|言《こと》も見出さなかつた。彼は、彼女を後に振りかへるやうにして、靜かに車内《しやない》に入つた。彼女は影のやうに從つた。
 廣々とした車内には、閉《と》ざゝれた連なる玻璃の窓を透して、金屬のやうな午後の光りが、みちてた。彼は、その光りのなかを、割るやうに、彼女は、その光りのなかに溶《とか》されるやうに、二人は、赤いクッシヨンに並んで、腰をおろした。
 彼女は、靜かに黒塗の杖から、汗ばんだ白い手をはなした。そして膝の上にかさねた袂のなかの、冷たい絹に、その手の熱をひやしながら、靜かなやはらぎを感じた。
 電車は、彼等のほかに幾人かの人をのせて動き出した。郊外へ/\と走る電車は、その窓に輝く木の葉の、きらびやかな影をうつして、人々は、ある漠然とした遠い心に捕はれてた。そして誰れも、その人々の顏について、眺める事をしなかつた。
 彼女は、まぶしさうにうつむいてゐた。
 その肩に強い日光をうけて、知られざる哀愁が、彼女の胸にみちた 彼女は、足元に木の葉の影を落して、はひよる光りを見つめながら、電車の響きが、彼女の頭に心よいリズムをつけてゐるのを感じた。
『靜かな、空の廣い野に行くんですわね。』と彼女は、戀人に對して確める前に、彼女は、はじめて、野のたのしさに、はれやかな憧憬の心をおこさしめた彼の手紙を
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