た。のがれることの出來ない肉體の弱さと、かぎりないあこがれの心との、なやましい沈默であつた。
 二人は、ひきもどした、けれども、深い溝は、彼等に憧憬の絶望を與へはしなかつた。夢みる緑の野は、いまだ二人の頭に淋しい輝きを殘してゐる。日は、野に近くおちた。わづかな木の葉や、木のかげに、不安な夕日のいろがたゞよつてゐる。二人は、歸るべき道を考へなければならなかつた。二人は、遠い空を見かへりながら、不安な、あやしい道をたどつた。うす暗い夢のやうに、黒い木の下の小路をぬけ出た時に、彼等は不意に、鐵道線路のつめたい色を見た。
 彼女は、もはや堪へがたく疲れてゐた。けれども、杖はつめたく彼女一人を、さゝへてゐた。『戀人の腕によらずに、一人で強くお前の道を歩め。』といふやうに、杖はつれなくつめたかつた。彼女は、その杖から逃れるやうにして、線路の傍の、落葉の上に坐つた、かわいた落葉は、彼女の手のしたに靜かな囁《さゝや》きをつたへた。風が冷たく、彼女の身體をふるはした。彼女は、目の前にかぎりなくつゞく線路の青白さにみいられて見つめた。その青白く光る刄物のやうな表には、遠く汽車のすぎるこまかな震動を、つたへてるやうに見えた。そして、人のないあたりの灰色の空氣が、ひくゝその表にたゞよつてゐた。死が彼女の心を捕へた。死は、彼女の心と共に生れて來た白い花であつたから、戀の憂欝はたゞちに死をともなつた。そして、それが不安なしに合つた時、彼女に最上の幸福が齎らされると思つてゐた。彼女は、ふと自殺者が、汽車のすぎるのをまつやうな心になつた。青白い線路がふるへてゐる。そして微笑してゐる。
『自殺者のやうだわね。』
 彼女は、ふと言つて戀人の顏を見た。しかし、立上つてた戀人の瞳は、如何に輝いてたことだらう。彼女は、忽ち後悔の苦悶に捕はれた。死が彼にとつて、どんなに厭はしいものであらうと考へたのである。死が彼に戰慄と憎惡を與へはしまいかと、思つたのである。彼は、いまだ死を口にしたことがない。そして、彼の戀は、はげしい生の欲求によつて、生れたものであるらしかつた。
 しかし、彼女の戀は、死によつて芽ぐんだのである。いかにしても死をはなれることの出來ない苦悶であつた。彼の瞳の前に、死は彼女の心に、なやましい混亂をおこす。彼女は、初めから生と死に別れた戀が、なにゝよつて一つになることが出來るだらうかと、思つたの
前へ 次へ
全9ページ中7ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
素木 しづ の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング