あ、もう赤さんは出てしまったのですか。』
医者はどんよりした眼を開けて聞いた。
『え、お産は案外早かったので御座いますよ。』
『女でしたか、男でしたか。』
『お嬢さんで入らっしゃいましたが、なにしろお月が早いので。』産婆が云ひかけようとすると医者がそれをさへ切るやうにして云った。
『それで、出ないといふのは後産なのですな。』
そして、彼は立上った。
医者は彼女の身体を診察した、そして、心配そうに坐ってゐる男の方に向って、
『なに、私が一寸手をかけますと、じきに出ます。なにか消毒液、アルコールがありますか。なかったら一寸取って下さい。』
男は一寸と云って、あはてゝ家を出て行った。
医者は、やがて腕をまくり上げて、ふと隅にあった石炭酸を見つけだして。そして、『これでいゝ。』と云ひながら、熱湯にまぜて、手を指の先から腕まで一心に洗ひ出した。彼女はそっと上目を開けて悲しそうに医者を見た。
医者は、アルコールが来ないうちに、もはや彼女の肉体にふれてゐた。彼女は思はず寒さの為めにふるへるやうに、身ぶるひした。まだ男は帰って来ない。そして枕元には誰れもゐなかった。
それは、我慢すべき痛みであったらう。けれども痛みは戦慄すべきものであった。彼女は産婆のざらざらした皺のよったやせた手にすがりついた。
男がいそがしく外から白い瓶をさげて帰って来た時には、手術が終ってたのだった。彼は冷たい外からあはたゞしく部屋のなかに入って来て、ぢっと眼を閉ぢてる彼女を不安そうに眺めた。
『もう終りましたか、なんとなく。』
彼は手を洗ってる医者を見た。
『え、石炭酸がたくさんありましたから、それで十分でした。なに御心配なさることはない。』
医者が手をふいて座りなほした時に、彼女はぼっと眼を開いて夢でも見たかのやうに、
『赤ちゃんは。』と聞いた。
『あゝ、赤ちゃんを拝見いたしませう。あちらの方ですか。』医者は立ちかけた。すると、彼女は急に泣き出しそうな顔をした。
『赤ちゃんをこゝに置いちゃいけないのでせうか。』彼女は小さな声で云った。
やがて赤ん坊は布団のまゝ運ばれて、彼女の枕元に来た。なんといふあはれないたましい生き物なのだらう。医者は、赤ん坊を見て、
『よほど大切になさらないといけませんな、そして暖かく。育たないかも知れませんから。』
灰色の顔がふとゆがんだ。そして医者は、寒い戸口から消えて行った。
産婆は、ほっと息をついてあはてゝ帰り仕度を初めた。そして明朝早く来ると云ひおいて、やせた髪の毛の少ない彼女もまた戸口から消え去ってしまった。
部屋のなかは急につめたく澄んで来た。もはや夜中だ。疲れ切って、魂を奪はれてしまったやうな彼女がうすく膜のかゝったやうな瞳を上むけてゐた。そして不安と気づかいと恐れと驚きと、すべての肉体の疲労との為めに頭が煙りのやうになって茫然と男は立ちつくした。面を伏せて見たならばあのあはれな赤黒い小さな生き物も、かすかなため息をもらしてゐるだらう。
彼女は、うとうとと眠りにおちて行った。
やがて男は、赤ん坊の傍に彼の床をならべて敷いた。
そして彼は床のなかに静かにすべり込んだが、彼の瞳はなかなかとじられなかった。そして彼にはたへず赤ん坊の糸のやうな、細いかすかな泣き声が耳についてはなれなかった。赤ん坊は度々小さなそして、かすかな泣き声をわずかばかり立てた。男はまた幾度となく静かに赤ん坊の顔をのぞき込んだ。
小さなあはれな生き物は、なんといふ悲しい物あはれな息をしてゐるのだらう。本当に物あはれなかなしい、彼の瞳は涙にくもらうとして来た。なにが故に、この小さな赤ん坊が、云ひしれないかなしみを彼に与へるのだらうか。「可哀想に、おゝ可哀想に」彼は心のなかでくりかへした。そうだ、かなしみの日だ、なんといふかなしみの日だらう。この小さな一箇の生物が生れて来たといふこと、生れて来たといふ日を彼はけっしてよろこびの日として、よろこびのことゝして記憶することが出来ない。すべての人間は真にかなしみの日としてのみ己の生れた日を記憶するであらう、可哀想にすべての生物は生れる。そして死ぬのだ。世の中にかなしみは泉のやうに、流れて絶えないだらう。
彼は今朝、彼女のかすかな腹痛が起って産婆が来た時から、急な金策の為めに寒い冷たい賑《にぎや》かな街の白い道を、あてもなく急いで、彼女に対するあはれみと不安とにいらだちながら、くらくらと目眩《めまひ》に倒れようとして殆んど夕方まで歩きつゞけた自分の姿が目に浮んで来た。そして自分が夜になって、やうやく自分の家に帰って来た時、家のなかの静けさは彼に云ひしれない恐怖を与へた。そしてふるへながら入って来た部屋に、おゝあのかつて見なかった所の、あはれなあはれな赤黒い小さな生き物が、あまりに小さな生き物が白
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