い瞳を糸のやうに開いて、本当にほのかなかすかな息をついてゐたのだった。
 どんなに早くっても今夜おそくか、明朝にきっとなるだらうと産婆が云ったために、彼は幾分か安心したのであったけれども、自分の留守にこのあまりに不思議な怖ろしい奇蹟が彼女に行はれたといふことが彼には、どうしたことだといふやうに、只驚かされてしまったのだった。彼女は、一体どうなったか。
 やがて彼女は、どこからともなくかなしげなほそ/″\とひゞく唄の声を聞いた。そしてその唄が、彼女のうつゝな心のなかに次第次第に目覚めかゝらうとして来た時、彼女の心が急になんともしれない非常な気づかいの為めに驚いたやうに瞳を見開いた。
 人が歩いてゐる。この部屋のなかをひそかにそっと、何物かを抱へながら静かに唄を歌ってるのだ。
『ねんねんねんねん――ねんねんや。』
 その声がどんなに物あはれに、その声がかなしみからやうやうぬけ出たやうにきこえたことだらう。唄ってるのは男だった。彼のいづこからその細やかな、すき通るやうな声が出て来るのであらうか。彼は一生懸命だった。赤ん坊を両手に抱へ込んで、静かに瞳をふせながら折々糸のやうに細く声を立てゝ泣くのをなだめようと、歩いてるのであった。そして赤ん坊のあまりに物あはれなその顔に、彼のくぼんだ深い瞳をうるませながら、なぐさめがたい悲しみにふるえながら、ひそかに歩いてゐたのであった。
『あゝ、赤ちゃんは。』
 彼女の不思議な気がゝりが、彼女が目覚めると同時に声を立てた。そして彼女は赤ん坊をかゝへてゐる男の後姿をながめた。
『あゝ、赤ちゃんが泣くの。』
 けれども、彼女の声はひくかった。彼は静かに唄を歌ってゐた。
『ねんねんねんねん――ねんねんや――赤ちゃんはおりこうだ、ねんねしな――』
 彼女はふと、その唄を聞くと、涙がぼうと浮んで来た。そしてそのかなしみのなかに、彼女は茫然と沈んでしまった。動かされない身体の痛みとだるさを、そして彼女は急に感じたのだった。
 彼女は、やがてまた耳についてるやうな、細くかなしげな声の為めに目覚めた。そしてそっと彼女の隣りの夜具に瞳をやると、大きな夜具の上が心地《こゝろもち》動いたとも思はれないほど、動いて、すき通るやうな小さな声はそこから洩れてゐたのであった。
『おゝ、赤ちゃんや。』
 彼女は、力なく夜具のなかから手を出した。そして隣りの夜具の上にやうやくその指をのばした。そして彼女の口は自然に開かれて彼女がかつて唄ったことのない唄が口から出て来た。
『ねんねんねんねん――ねんねんな。ねんねんねん――ねんねしな――。』
 とぎれとぎれに彼女は力なく唄って、その疲れたやうな白い小さな指先で、夜具の上を静かに打ちはじめた。
 彼女はつかれた。そして彼女の手は赤ん坊の夜具の上にしほれたやうに投げ出されたまゝ動かなくなった。そして彼女の瞳がぼんやりと閉ぢられてしまったけれども、彼女はなほ唄ってゐた。
『ねんねんねんねん、ねんねんな――、赤ちゃんはねんねしな、ねんねしな――』
男は、ふとつめたい床のなかから唄の声を聞いて飛び立つやうに目覚めた。そして見るとねてるやうな彼女の唇から、歌がとぎれとぎれに聞えてゐたのであった。そして赤ん坊は小さな顔に皺をよせて、細い細い声を立てゝ泣いてゐた。
 しら/″\と白い光りが部屋のなかにどこともなくたゞよって、いつのまにか部屋は暁の冷たい空気にみたされた。そして彼等の夢のやうな夜が明けたのであった。そして、彼も彼女も淋しく床のなかにめざめた。
 赤ん坊は、一人赤ん坊のみは、やうやく平和のかなしみのなかに瞳を閉ぢて、静かな息をついてゐた。
 お葉は、初めて、やうやく、彼と自分との間にかつて見なかった所の、そしていづこから来たとも知れないこの小さな生き物が横へられてあるのを見て驚いた。彼女はしみじみと、半ば布団のかげに、半ば白い光りをあびてる幼な児の顔を不思議なものゝやうに見つめた。
「私から、私からこの生き物が生れた?」どうしてそんな事を信ずることが出来よう。おゝそして、それが我子、我子と云はねばならないか。どうして、そんな事を信ずることが出来やうか。」
 あの苦しいなやみ、あの苦しい痛みのうちにこの赤ん坊が生れたとしたならば、それは神か悪魔でなければならない。けれども、この生れ出たこの悪魔は、神はどうしてあはれむべきものであらうか。
『私は、私が赤ちゃんを生んだのでせうか。そうして、この赤ちゃんは、一体誰れのものなのでせう。』
 彼女は男の目覚めてるのを見て云った。
『可哀想だ、俺はたゞ可哀想でならない。そして、この生れて来たあはれな小さなものは俺だち二人のなかに生れ、俺だち二人の間にゐるのだからね、なんといふ可愛いやつだらう。大切にしなければならない、なにしろ、しかしどうしたらいゝもの
前へ 次へ
全5ページ中4ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
素木 しづ の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング