の腰やお腹をさすり初めた。
 けれどもやがてその痛みは、すっと逃れるやうに消えてしまった。そして彼女はまた茫然と夢のなかに浮かされたやうな快さのなかに、うっとりと瞳を閉ぢてしまった。お葉の身体はなんでもないやうな厚い夢の衣につゝまれてしまったやうであった。
 男はほっと深く息を吸ひ込むやうにして、窓の方をにらむやうに眼を見はった。
 いま彼の神経は、帆のやうに張りきって、また次の瞬間には木の葉のやうに、ふるへてゐるのであった。真白な殆んど冷たそうな色をして静かに目を閉ぢてるこの可哀想な女が、不自由な肉体でどれ丈の苦しみをしたことだらう。妊娠中に知らない旅から旅へと歩いて少しの慰安も与へることが出来ずに、彼女の心がなやみに疲れ、かなしみにおぼれて、なんの用意もない所に、不意にそしてあまりに早くお産をしなければならなくなったのだ。
『ゆるしてくれ。すべてのことをゆるしてやってくれ。』
 男は小さな声で、彼女の顔に息をふきかけるやうに云った。その時彼はふとむこうの部屋で、そうだ、あのあはれな生物がうすい眼を開いてたあの小さなうす暗い部屋の方で、さわぐやうな声を聞いた。男は急に立ち上って部屋を出た。
 うす暗い部屋のなかに三人の女が、かたまるやうによりあつまってゐた。そしていまうす赤黒くほそく痩せた赤ん坊が、布団の上から抱き上げられやうとしていた。女だちの手があはてゝ布団をまくり上げてゐた。
『赤ちゃんが、おゝすっかり冷たくなってしまって、どうしませう。』
と若い近所の子持の奥さんが、あはてゝ赤坊を抱き上げた。赤坊は少しも泣かなかった。そして白いやうな眼をうっすりと細目にあけてゐた。赤坊は毛布にかたくつゝまれて、湯たんぽの湯がかへられたりした。そして赤坊は再び寝かされたが、若い子持の奥さんは心配そうに、その細くうっすらと開いた白い眼を見つめてゐた。
『旦那、大変ですね。』と柱にぶらさがるやうにした女があった。
『私しゃ驚いてるんですよ。旦那、赤ん坊はどうでもいゝとして、奥様がですよ。赤ん坊は明るいうちに出てしまって、そしてまだ後のもの[#「後のもの」に傍点]が降りないって云ふじゃありませんか。このまゝでゐるともう奥様は死んじゃいますよ。旦那どうかなさいましよ。だから私しゃあの産婆さんはいけないって云ふんだ。』
『あゝ髪結さんかい。ありがたう。』
 彼はあはてゝまた産室に戻った。
 彼女は茫然と瞳を見開いて不思議なやうに部屋の壁や天井を見てゐた。そして産婆は平然と彼女の傍にその目っかちのやうな瞳をかたよせて坐ってゐた。
『大丈夫かい。本当にしっかりしてくれ。』
 彼は入るなり云って彼女の枕元に坐った。産婆は片目にしわくちゃな皺をよせて笑った。
『どうでせうか。本当に心配はないでせうか。医者をよびませうか。』
 彼はやがて哀願するやうに産婆に云った。
『えゝ大丈夫です。この位なら私でも少し無理をすればたりるんですけれどもね。まあ、もう少し様子を見ることにしませう。』
 沈黙がつゞいた。そして彼はじっとうつゝのやうな彼女の顔を一秒でも見のがさないやうにと深く見つめてゐた。死は、どんなにひそかに表はれて来るものだらうか。そして死はいかなるかげにひそんでゐるものだかわからない。
 やがて、次第に夜がふけて来たやうだった。真暗な夜の空の冷たさが、どこからともなくひそやかに流れて来たやうだ。そして、部屋の空気がいつとなくひえ/″\として来た。けれども彼女の後産はまだ下りなかった。そして彼女はつめたそうな顔をして、うつゝともなく瞳をとぢたまゝでゐる。
『大丈夫かい。なんでもない?』
 彼は一生懸命に云った。彼女は茫然とうなづいて瞳を見開いたが、その瞳の底が淋しさうに光った。すると産婆が身ぶるひをしながらせはしさうに口を利いた。
『でも御心配なら産科の医者をおよびになってもよござんすよ。あの野田さんがよござんせう。』
 男はあはてゝ医者を呼びにやった。彼女はふと驚いたやうに瞳を見開いて聞いた。
『お医者さまが来るの。』
『うん、只来てこゝにゐて貰ふだけなんだからね。なにも心配しない方がいゝよ。』
 彼女は黙ってうなづいたが、どこか苦しそうに肩をひそめた。
 まもなく寒い外に俥《くるま》の鈴《べる》がなりひゞいて、背の小さな青い顔の、黒い服を着た男が入って来た。すると産婆が急に席をうごいて、口をゆがめて笑ひながら医者に長い挨拶をした。そして彼女は話し出した。
『私も一度拝見しましたばかりで、よく身体の様子はわからないので御座いますが、かすかな痛みは今朝からあったやうで御座いまして、私の参りましたのが丁度お昼、それからすぐに陣痛がだんだん烈しくなって来まして、午後三時頃には三銭銅貨大ほど子宮孔が開いて来まして、四時半にはもう生まれてしまったのですが。』

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