かなしみの日より
素木しづ

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)淡黄色《うすきいろ》い光りが

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)只|茫然《ぼんやり》と

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)後《のち》のもの[#「のもの」に傍点]が

/\:二倍の踊り字(「く」を縦に長くしたような形の繰り返し記号)
(例)ひえ/″\と
*濁点付きの二倍の踊り字は「/″\」
−−

 彼女は、遠くの方でしたやうな、細い糸のやうな赤ん坊の泣き声を、ふと耳にしてうつゝのやうに瞳を開けた。もはや部屋のなかには電気がついてゝ戸は立てられてあった、そして淡黄色《うすきいろ》い光りが茫然《ぼんやり》と部屋の中程を浮かさるゝやうになって見えた。
『一寸もお苦しくは御座いませんか。気が遠くなるやうじゃ御座いませんか。』
 彼女の瞳がうっすらと開いたのを見て、色の黒い目っかちのやうな産婆がすぐ声をかけた。彼女はなんにも見なかった。そしてその声ばかりを耳元で静かに聞いた。
『いゝえ、一寸も苦しくないの。それはいゝ気持。』
 そして彼女は夢のなかで一人ごとを云ふやうに、快よさそうに云った。するとまた、
『大丈夫ですか、まだすんだのじゃありませんからね。もう一度、ほんのちょっと苦しみさへすればそれでいゝんですからね。』とやさしい声がきこえて来た。
「おゝ、私は非常に苦しんだのだった。あの時は障子に明るい日があたってちらちらしてゐた。そして私が、寒さと冷汗と烈しい痛みのなかにふるへてゐた私が、くらやみの中に閉ぢた眼をふと開けて、あの障子にちらちら踊ってた日を見たのだった。外はまばゆい程明るかった。そして私は本当にすべてが消滅するかと思はれるほど苦しんだのだった。」
 彼女は、ふと頭のなかですべてのことを思ひ浮べたやうだった。あの恐ろしい発作のやうななやみを、そして彼女はぼんやりと、どこかに非常にあはれな小さな赤ん坊がゐるに違ひないと思った。彼女はぼんやりと再び瞳を開けた。
 すると、目の前にいつも髪を結ひに来る赤い顏の肥えた髪結さんの、まんまるい大きな眼が不安そうに光ってゐた。
『ね、奥様、ちょっと起き上って見ちゃどうですか。私がそっとこう大切に手をかけて見てあげますから、あゝ私はどうしたらいゝか気が気ぢゃない。奥様、後《のち》のもの[#「の
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