もの」に傍点]が下りないと、大変なんですがねえ、どうしたらいゝだらう。血が頭に上ってしまったら。ね、奥様一寸起き上って見なすっちゃどうですか。そうするとすぐ下りるんですけれどもね。第一寝てお産するのがいけないのだ。』
『髪結さんなの。』
彼女は低い声で気のなさそうに聞いた。
『えゝ、奥様がなんだといふ事を聞いたもんですから、まあ一寸と思って急いで来たんですがね、赤さんが出てしまったのに後のもの[#「後のもの」に傍点]が下りないなんていふもんだから、私しゃ吃驚《びっくり》してしまった。』
『いゝの、私はこのまゝでいゝの。』
彼女は、そばであはたゞしく大声で話しかけられたので目覚めかけたやうな頭が、またぼうとなって来た。そしてまたうっすらと瞳を閉ぢてしまった。
彼女はたゞ夢のやうである。そして彼女はこの夢のやうな淡いふんわりと浮き上ってるやうな心持を、なぜか多くの人々が気づかひそうに見守ってゐることが感じられた。けれども彼女はどうしようとも思はなかった。そして彼女の心は只|茫然《ぼんやり》と時々遠くの方へ引づられてゆくやうな気がした。
やがて玄関の戸が強く開く音がして部屋の襖《ふすま》が開けられると、ふっと冷たい空気が流れ込んで来た。そして外から帰って来た男が、つめたそうな顔をして不安にうるんでる瞳を見はりながら入って来た。
『どうした、大丈夫か。』
そして彼は彼の冷え切った大きな手で、彼女のやはらかな疲れ切って投げ出され、忘られたやうな小さな手をかたく握りしめた。
『大丈夫か、しっかりしてくれ。』
男は静かに、彼女の生へ際のみだれた毛をなで上げてやった。
彼女はぢっと彼の顔を見て居たが、急に力強いはっきりした意識が目覚めて来た。そうだ。彼女はなにか云はなければならない。
『赤ちゃんが生れましたの。』
『うむ。』男はあはれそうに彼女を慰めようとして、笑ひを浮べながら、
『うむ、赤ちゃんを見て来たよ。赤ちゃんは大丈夫だ。さ、もう少しだ、しっかりしてゝくれ。』
お葉は静かにうなづいた。そして、もう一度なにかを云はふと、男が瞳に眼を上げた時お腹と、腰との間へんが、しめるやうに痛み出した。
『おゝ。』彼女は顔をゆがめた。男は、
『がまんしてくれ。』と力をそへるやうに彼女の腕首をつよくおさへた。
『痛み出しましたか。今度はすぐ下りるでせう。』産婆は、あはたゞしく彼女
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