ら消えて行った。
産婆は、ほっと息をついてあはてゝ帰り仕度を初めた。そして明朝早く来ると云ひおいて、やせた髪の毛の少ない彼女もまた戸口から消え去ってしまった。
部屋のなかは急につめたく澄んで来た。もはや夜中だ。疲れ切って、魂を奪はれてしまったやうな彼女がうすく膜のかゝったやうな瞳を上むけてゐた。そして不安と気づかいと恐れと驚きと、すべての肉体の疲労との為めに頭が煙りのやうになって茫然と男は立ちつくした。面を伏せて見たならばあのあはれな赤黒い小さな生き物も、かすかなため息をもらしてゐるだらう。
彼女は、うとうとと眠りにおちて行った。
やがて男は、赤ん坊の傍に彼の床をならべて敷いた。
そして彼は床のなかに静かにすべり込んだが、彼の瞳はなかなかとじられなかった。そして彼にはたへず赤ん坊の糸のやうな、細いかすかな泣き声が耳についてはなれなかった。赤ん坊は度々小さなそして、かすかな泣き声をわずかばかり立てた。男はまた幾度となく静かに赤ん坊の顔をのぞき込んだ。
小さなあはれな生き物は、なんといふ悲しい物あはれな息をしてゐるのだらう。本当に物あはれなかなしい、彼の瞳は涙にくもらうとして来た。なにが故に、この小さな赤ん坊が、云ひしれないかなしみを彼に与へるのだらうか。「可哀想に、おゝ可哀想に」彼は心のなかでくりかへした。そうだ、かなしみの日だ、なんといふかなしみの日だらう。この小さな一箇の生物が生れて来たといふこと、生れて来たといふ日を彼はけっしてよろこびの日として、よろこびのことゝして記憶することが出来ない。すべての人間は真にかなしみの日としてのみ己の生れた日を記憶するであらう、可哀想にすべての生物は生れる。そして死ぬのだ。世の中にかなしみは泉のやうに、流れて絶えないだらう。
彼は今朝、彼女のかすかな腹痛が起って産婆が来た時から、急な金策の為めに寒い冷たい賑《にぎや》かな街の白い道を、あてもなく急いで、彼女に対するあはれみと不安とにいらだちながら、くらくらと目眩《めまひ》に倒れようとして殆んど夕方まで歩きつゞけた自分の姿が目に浮んで来た。そして自分が夜になって、やうやく自分の家に帰って来た時、家のなかの静けさは彼に云ひしれない恐怖を与へた。そしてふるへながら入って来た部屋に、おゝあのかつて見なかった所の、あはれなあはれな赤黒い小さな生き物が、あまりに小さな生き物が白
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