詩集夏花
伊東静雄

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)酒《さか》つくり

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)吾|古家《ふるや》のことを。

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
   (数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)※[#「足へん+宛」、第3水準1−92−36]《もが》く

/\:二倍の踊り字(「く」を縦に長くしたような形の繰り返し記号)
(例)うすい/\削片を
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 目次



砂の花
夢からさめて
蜻蛉
夕の海
いかなれば
決心
朝顔
八月の石にすがりて
水中花
自然に、充分自然に
夜の葦
燈台の光を見つつ
野分に寄す
若死
沫雪
笑む稚児よ……
早春
孔雀の悲しみ
夏の嘆き
疾駆
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[#ここから2字下げ]
おほかたの親しき友は、「時」と「さだめ」の
酒《さか》つくり搾り出だしし一《いち》の酒。見よその彼等
酌み交す円居《まどゐ》の杯《つき》のひとめぐり、将たふためぐり、
さても音なくつぎつぎに憩ひにすべりおもむきぬ。

友ら去りにしこの部屋に、今夏花の
新よそほひや、楽しみてさざめく我等、
われらとて地《つち》の臥所《ふしど》の下びにしづみ
おのが身を臥所とすらめ、誰がために。
[#ここで字下げ終わり]
[#地付き]森亮氏訳「ルバイヤツト」より
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 燕


門《かど》の外《と》の ひかりまぶしき 高きところに 在りて 一羽
燕《つばめ》ぞ鳴く
単調にして するどく 翳《かげり》なく
あゝ いまこの国に 到り着きし 最初の燕《つばめ》ぞ 鳴く
汝 遠くモルツカの ニユウギニヤの なほ遥かなる
彼方《かなた》の空より 来りしもの
翼《つばさ》さだまらず 小足ふるひ
汝がしき鳴くを 仰ぎきけば
あはれ あはれ いく夜凌げる 夜《よ》の闇と
羽《はね》うちたたきし 繁き海波《かいは》を 物語らず
わが門《かど》の ひかりまぶしき 高きところに 在りて
そはただ 単調に するどく 翳《かげり》なく
あゝ いまこの国に 到り着きし 最初の燕《つばめ》ぞ 鳴く
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 砂の花 富士正晴に


松脂は つよくにほつて
砂のご門 砂のお家
いちんち 坊やは砂場にゐる

黄色い つは[#「つは」に傍点]の花 挿して
それが お砂の花ばたけ
… … … … … … … … … … … … …

地から二尺と よう飛ばぬ
季節おくれの もんもん蝶
よろめき縋る 砂の花

坊やはねらふ もんもん蝶
… … … … … … … … … … … … …
その一撃に

花にうつ俯す 蝶のいろ
あゝ おもしろ
花にしづまる 造りもの

「死んでる? 生きてる?」
… … … … … … … … … … … … …

松脂は つよくにほつて
いちんち 坊やは砂場にゐる
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 夢からさめて


この夜更《よふけ》に、わたしの眠をさましたものは何の気配《けはひ》か。
硝子窓の向ふに、あゝ今夜も耳原御陵《みゝはらごりよう》の丘の斜面で
火が燃えてゐる。そして それを見てゐるわたしの胸が
何故《なぜ》とも知らずひどく動悸うつのを感ずる。何故《なぜ》とも知らず?
さうだ、わたしは今夢をみてゐたのだ、故里《ふるさと》の吾|古家《ふるや》のことを。
ひと住まぬ大き家の戸をあけ放ち、前栽《せんざい》に面した座敷に坐り
独りでわたしは酒をのんでゐたのだ。夕陽は深く廂に射込んで、
それは現《うつゝ》の日でみたどの夕影よりも美しかつた、何の表情もないその冷たさ、透明さ。
そして庭には白い木の花が、夕陽《ゆふひ》の中に咲いてゐた
わが幼時の思ひ出の取縋る術《すべ》もないほどに端然《たんぜん》と……。
あゝこのわたしの夢を覚したのは、さうだ、あの怪しく獣《けもの》めく
御陵《みささぎ》の夜鳥《やちよう》の叫びではなかつたのだ。それは夢の中でさへ
わたしがうたつてゐた一つの歌の悲しみだ。

かしこに母は坐《ざ》したまふ
紺碧《こんぺき》の空の下《した》
春のキラめく雪渓に
枯枝《かれえ》を張りし一本《ひともと》の
木《こ》高き梢
あゝその上にぞ
わが母の坐《ざ》し給ふ見ゆ
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 蜻蛉


無邪気《むじやき》なる道づれなりし犬の姿
何処《いづこ》に消えしと気付ける時
われは荒野《あれの》の尻《しり》に立てり。

其の野のうへに
時明《ときあかり》してさ迷ひあるき
日の光《ひかり》の求むるは何《なに》の花ぞ。

この問ひに誰か答へむ。弓弦《ゆづる》断《た》たれし空よ見よ。
陽差《ひざし》のなかに立ち来つつ
振舞ひ著《しる》し蜻蛉《あきつ》のむれ。

今ははや悲しきほどに典雅《てんが》なる
荒野《あれの》をわれは横ぎりぬ。
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 夕の海


徐《しづ》かで確実な夕闇と、絶え間なく揺れ動く
白い波頭《なみがしら》とが、灰色の海面《うみづら》から迫つて来る。
燈台の頂《いたゞき》には、気付かれず緑の光が点《とも》される。

それは長い時間がかゝる。目あてのない、
無益《むえき》な予感《よかん》に似たその光が
闇によつて次第に輝かされてゆくまでには――。

が、やがて、あまりに規則正しく回転し、倦《う》むことなく
明滅《めいめつ》する燈台の緑の光に、どんなに退屈して
海は一晩中|横《よこた》はらねばならないだらう。
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 いかなれば


いかなれば今歳《ことし》の盛夏のかがやきのうちにありて、
なほきみが魂にこぞの夏の日のひかりのみあざやかなる。

夏をうたはんとては殊更に晩夏の朝かげとゆふべの木末《こぬれ》をえらぶかの蜩の哀音《あいおん》を、
いかなればかくもきみが歌はひびかする。

いかなれば葉広き夏の蔓草《つるくさ》のはなを愛して曾てそをきみの蒔かざる。
曾て飾らざる水中花と養はざる金魚をきみの愛するはいかに。
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 決心 「白の侵入」の著者、中村武三郎氏に


重々しい鉄輪《てつわ》の車を解放《ときはな》されて、
ゆふぐれの中庭に、疲れた一匹の馬が彳《たゝず》む。
そして、轅《ながえ》は凝《じつ》とその先端《さき》を地に著けてゐる。

けれど真《しん》の休息《きうそく》は、その要のないものの上にだけ降《お》りる。
そしてあの哀れな馬の
見るがよい、ふかく何かに囚《とら》はれてゐる姿を。

空腹《くうふく》で敏感になつたあいつの鼻面《はなづら》が
むなしく秣槽《まぐさをけ》の上で、いつまでも左右に揺れる。
あゝ慥に、何かがかれに拒《こば》ませてゐるのだ。

それは、疲れといふものだらうか?
わたしの魂よ、躊躇《ためら》はずに答へるがよい、お前の決心。
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 朝顔 辻野久憲氏に


去年の夏、その頃住んでゐた、市中《しちゆう》の一日中陽差の落ちて来ないわが家《や》の庭に、一茎《ひとくき》の朝顔が生ひ出でたが、その花は、夕の来るまで凋むことを知らず咲きつづけて、私を悲しませた。その時の歌、

そこと知られぬ吹上《ふきあげ》の
終夜《しゆうや》せはしき声ありて
この明け方に見出でしは
つひに覚めゐしわが夢の
朝顔の花咲けるさま

さあれみ空に真昼過ぎ
人の耳には消えにしを
かのふきあげの魅惑《まどはし》に
己《わ》が時|逝《ゆ》きて朝顔の
なほ頼みゐる花のゆめ
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 八月の石にすがりて


八月の石にすがりて
さち多き蝶ぞ、いま、息たゆる。
わが運命《さだめ》を知りしのち、
たれかよくこの烈しき
夏の陽光のなかに生きむ。

運命《さだめ》? さなり、
あゝわれら自《みづか》ら孤寂《こせき》なる発光体なり!
白き外部世界なり。

見よや、太陽はかしこに
わづかにおのれがためにこそ
深く、美しき木蔭をつくれ。
われも亦、

雪原《せつげん》に倒れふし、飢ゑにかげりて
青みし狼の目を、
しばし夢みむ。
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 水中花


水中花《すゐちゆうくわ》と言つて夏の夜店に子供達のために売る品がある。木のうすい/\削片を細く圧搾してつくつたものだ。そのまゝでは何の変哲もないのだが、一度水中に投ずればそれは赤青紫、色うつくしいさまざまの花の姿にひらいて、哀れに華やいでコツプの水のなかなどに凝としづまつてゐる。都会そだちの人のなかには瓦斯燈に照しだされたあの人工の花の印象をわすれずにゐるひともあるだらう。

今歳《ことし》水無月《みなづき》のなどかくは美しき。
軒端《のきば》を見れば息吹《いぶき》のごとく
萌えいでにける釣《つり》しのぶ。
忍《しの》ぶべき昔はなくて
何《なに》をか吾の嘆きてあらむ。
六月《ろくぐわつ》の夜《よ》と昼のあはひに
万象のこれは自《みづか》ら光る明るさの時刻《とき》。
遂《つ》ひ逢はざりし人《ひと》の面影
一茎《いつけい》の葵《あふひ》の花の前に立て。
堪へがたければわれ空に投げうつ水中花《すゐちゆうくわ》。
金魚《きんぎよ》の影もそこに閃《ひらめ》きつ。
すべてのものは吾にむかひて
死《し》ねといふ、
わが水無月《みなづき》のなどかくはうつくしき。
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 自然に、充分自然に


草むらに子供は※[#「足へん+宛」、第3水準1−92−36]《もが》く小鳥を見つけた。
子供はのがしはしなかつた。
けれども何か瀕死《ひんし》に傷いた小鳥の方でも
はげしくその手の指に噛みついた。

子供はハツトその愛撫を裏切られて
小鳥を力まかせに投げつけた。
小鳥は奇妙につよく空《くう》を蹴り
翻り 自然にかたへの枝をえらんだ。

自然に? 左様 充分自然に!
――やがて子供は見たのであつた、
礫《こいし》のやうにそれが地上に落ちるのを。
そこに小鳥はらく/\と仰けにね転んだ。
[#改ページ]

 夜の葦


いちばん早い星が 空にかがやき出す刹那は どんなふうだらう
それを 誰れが どこで 見てゐたのだらう

とほい湿地のはうから 闇のなかをとほつて 葦の葉ずれの音がきこえてくる
そして いまわたしが仰見るのは揺れさだまつた星の宿りだ

最初の星がかがやき出す刹那を 見守つてゐたひとは
いつのまにか地を覆うた 六月の夜の闇の余りの深さに 驚いて
あたりを透かし 見まはしたことだらう

そして あの真暗な湿地の葦は その時 きつとその人の耳へと
とほく鳴りはじめたのだ
[#改ページ]

 燈台の光を見つつ


くらい海の上に 燈台の緑のひかりの
何といふやさしさ
明滅しつつ 廻転しつつ
おれの夜を
ひと夜 彷徨《さまよ》ふ

さうしておまへは
おれの夜に
いろんな いろんな 意味をあたへる
嘆きや ねがひや の
いひ知れぬ――

あゝ 嘆きや ねがひや 何といふやさしさ
なにもないのに
おれの夜を
ひと夜
燈台の緑のひかりが 彷徨《さまよ》ふ
[#改ページ]

 野分に寄す


野分《のわき》の夜半《よは》こそ愉《たの》しけれ。そは懐《なつか》しく寂《さび》しきゆふぐれの
つかれごころに早く寝入りしひとの眠《ねむり》を、
空《むな》しく明くるみづ色の朝《あした》につづかせぬため
木々の歓声《くわんせい》とすべての窓の性急なる叩《のつく》もてよび覚ます。

真《しん》に独りなるひとは自然の大いなる聯関《れんくわん》のうちに
恒《つね》に覚めゐむ事を希《ねが》ふ。窓を透《すか》し眸《ひとみ》は大海《おほうみ》の彼方《かなた》を待望まねど、
わが屋《や》を揺するこの疾風《はやて》ぞ雲ふき散りし星空の下《もと》、
まつ暗き海の面《おもて》に怒れる浪を上げて来し。

柳は狂ひし女《をんな》のごとく逆《さかし》まにわが毛髪《まうはつ》を振りみだし、
摘まざるままに腐りたる葡萄の実はわが眠《ねむり》目覚むるまへに
ことごとく地に叩きつけられけむ。
篠懸《すゞかけ》の葉は翼《つばさ》撃《う》たれし鳥に似て次々に黒く縺れて浚はれゆく。

いま如何《いか》ならんかの暗き庭隅《にはすみ》の菊や薔薇《さうび》や。されどわれ
汝《なんぢ》
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