チチアンの死
ホーフマンスタール Hugo von Hofmannsthal
木下杢太郎訳
−−
【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)唄《うた》う者
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)陰惨事|繁《しげ》き
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)※[#「片+總のつくり」、第3水準1−87−68]《まど》の
−−
人
[#ここから改行天付き、折り返して1字下げ]
序曲を唄《うた》う者
フィリポ・ポンポオニオ・ヴェチェリオ。別称チチアネルロ(大匠の息)
ジョコンド
デジデリオ
ジヤニイノ(この人十六歳の青年、甚だ美し。)
バチスタ
アントオニオ
パリス
ラヴィニア(大匠の一女)
カッサンドラ
リザ
[#ここで字下げ終わり]
時は千五百七十六年のこと。この年チチアンは九十九歳の高齢をもて歿せるなり。
[#ここから3字下げ]
ゴブランの幕下りている。プロセニウムにはボエックリンの半身像円柱の上に立つ。その基底には草花と花の小枝とを盛ったる籠《かご》。
シンフォニイの最後の拍子に連れて、序曲《プロロオグ》を唱う者登場する。そのうしろに炬火《たいまつ》を秉《と》る小厮《こもの》たち。
序曲を唱う者は一人の青年である。ヴェネチア風の装束、而《しか》も黒の喪服。
[#ここで字下げ終わり]
[#ここから改行天付き、折り返して1字下げ]
序曲を唄う者 では音楽はおやめ下さい。これからわたくしの舞台です。わたくしには已《や》むに已まれぬ訴えが胸にあるのです。この若い時代から一味の滋液が流れてわたくしの心に入ります。そして斯人《このひと》、今わたくしを瞻《みは》っているこの立像の主《あるじ》は、嘗《かつ》て、わたくしのこの上もない心の友だったのです。陰惨事|繁《しげ》き今の時代には、その情《なさけ》はまた是非わたくしに必要なものであったのです。かの水精《ナイアス》の水したたる白い御手《おんて》に滋味を吸う鵠《こう》の鳥、水に浮くこの聖鳥の如くに、わたくしも亦《また》暗い時の間《ま》には、斯人の手にうち伏し、うち縋《すが》り、わが心の糧――深き夢をば求めました。ああ、わたくしにはあなたの像を、唯木の葉、花の枝で飾ることしか出来ないのですか? あなたは、わたくしの為に世の相《すがた》を飾り、凡《すべ》ての花の枝の美しさをば限り知られぬ栄光に輝してくれたのですのに、わたくしは全く恍惚《こうこつ》として地上に身を投げ伏し、耀《かがやか》しい自然、その衣《ころも》の、わたくしに垂れかかるのに随喜したのです。友よ、お聴き下さい。わたくしは王者の崩御《おかくれ》の時のように、使を遣わしてあなたの名を四風に叫ばしめようとするものではありません。王者はその嗣《し》に名号《みょうごう》を遺し、その陵墓にその名の響を止めます。――あなたはそれに反して、大魔術者だったのです。あなたの形骸は無くなりました。だがあなたの面影はなおもそこここに残ってはいないでしょうか。それ等は神秘《じんぴ》な強い生命の力で、黒い目をして夜の潮《しお》から出て岸に上り――または毛深い耳を立てて、蔦《つた》にかくれて身を伸してはいないでしょうか。ですからわたくしは、何処《どこ》に往っても、樹の有る処、花の有る処、乃至《ないし》は黙々と口噤《くちつぐ》む石、空を曵《ひ》く一抹《いちまつ》の雲の有るところでは、決して自分がたった独りでいるのだとは思いはしないのです。つねに必ずかのアリエルの如く、玲瓏《れいろう》として澄明なる一物が軽くわたしの背を揺《ゆすぶ》るのです。即ち知る、あなたと凡ての造物との間には、不思議な連鎖が繋《つなが》っているのです。そうです。それで春の野原、御覧なさい、それはちょうど可憐な女の、夜《よる》、その身を任せる人に笑いかけるように、にっとあなたに笑いかけているではありませんか。
ああ、わたくしはあなたに物を訴えようとしたのでした。それだのにわたくしの口は喜び酔いしれた言葉でうち膨《ふくら》みます。もうあまり長くはここに立っていない方が好いでしょう。この杖を以て三たび床《ゆか》をば叩きましょう。そしてこの天幕の裡《うち》を、夢の姿を以て満しましょう。皆《みんな》に重い悲哀を担《かつ》がせて、よろよろと行き悩ませてやりましょう。泣きたい人をば泣かせてやり、そしてどんなに大きな憂愁が、この世の凡ての営みにうち雑《まじ》っているかと云うことを、身にしみじみと感じさせてやりましょう。ここに演じまする一齣《いっしゃく》の劇曲は、暗い、苦しい一時《いっとき》の鏡中の像《すがた》をばお目にかけるのです。世にも大《おおい》なる宗匠に対する深い哀悼の言葉をば、どうぞ、皆さん、影の人々の口から、とくと、お聴き取り下さいまし。
[#ここから3字下げ]
序曲を唱う者退く。炬火を秉《と》る人々も亦その後より去る。プロセニウムはしばし暗きままに止る。
シンフォニイ再び始まる。立像消ゆ。
そのあとにて棒の三打聞える。ゴブランの幕あがり、舞台現じ来る。
場面は是《こ》れヴェネチアに近き、チチアンが別荘の高台《テラス》の上である。この高台、後《うし》ろはところどころ打崩れたる石欄に仕切られてあり。それを越えて遠方の松樹白楊の梢が見られる。後方左側には庭にと下る階段がある(こなたよりは見難し)。その下り口、石欄の前に在って、両基の大理石水瓶により見分けられる。高台の左側は急峻に、庭の方へと下り行くのである。蔦《つた》、薔薇《そうび》の蔓《つる》欄にからまり、庭苑の高き叢《くさむら》、垂れかかる樹枝などと共に、ぎっしりと深き茂陰を成す。
右側には、階段扇形に後方なる角《かど》を充し、一つの望楼にと通じている。そこから帷幔《たれまく》の掛った扉を通じて家の裡に入るようになっている。家の壁は葡萄《ぶどう》、薔薇の蔓にまとわれ、半身像を以て飾られ、※[#「片+總のつくり」、第3水準1−87−68]《まど》の桁《けた》には瓶を並べ、纏絡《てんらく》植物それより生え出でる。舞台の右方はこの壁にて仕切られるなり。
晩夏の午時《ひるどき》。石欄より登り来る階段の上にはデジデリオ、アントオニオ、バチスタ、パリスの四人|茵絨毯《しとね》の上に寝そべりている。
皆沈黙。風静かに扉の帷幔を動かす。しばらくあってチチアネルロ、ジヤニイノ二人右手の戸口より入り来る。デジデリオ、アントオニオ、バチスタ及びパリス、気づかわしげに、また物聞きたげに、二人の方に進み寄り話しかける。少時の間の後に――。
[#ここで字下げ終わり]
[#ここから改行天付き、折り返して1字下げ]
パリス いけない?
ジヤニイノ (声を詰らせて)だいぶいけない。(涙にかきくれたるチチアネルロに)君、気の毒だな。ピッポオ。
バチスタ 眠っておいでか?
ジヤニイノ いや、起きておいでだ。しきりと空想していらっしゃる。画架を持って来いとおっしゃった。
アントオニオ だが、それを差上げるわけには行くまい。ねえ、いけないんだろう。
ジヤニイノ 医者はいいと言った。もう何もいやな思《おもい》をお為《さ》せ申すことはない。欲しいものは差上げるがいいんだ。
チチアネルロ (歔欷《きょき》す。)今日か明日《あす》かだ。それでおしまいだ。
ジヤニイノ もういつまでもあなた方にお隠しすることもありませんと医者が言った。
パリス いやいや、先生がおかくれになる筈はないんだ。医者はうそを言っているんだ。自分にも分らない好い加減の事を言っているんだ。
デジデリオ 生命を創造したチチアノ[#「チチアノ」はママ]が死ぬと云うのか。誰がそれなら生命に力、位を与えよう。
バチスタ だが御自分の容体がどんなか知ってはおいでにならないのかい。
チチアネルロ 熱のうちに、息もつかず、いつになく荒々しく、新しい画をおかき始めになった。むすめたちに傍に来て立っていろとおっしゃった。われわれには出て行けとおっしゃった。
アントオニオ 画をおかきになることは出来るのか。そんな力がお有りになるのか。
チチアネルロ まるで謎のような情熱だ。今までだって、画をおかきになる時、あんな風なことはなかった。まるで殉教者の狂熱に駆られておいでになる。
[#ここから3字下げ]
一侍僮右手の扉より出で来る。その後ろより下僕たち。人々驚く。
[#ここで字下げ終わり]
[#ここから改行天付き、折り返して1字下げ]
チチアネルロ ┐
ジヤニイノ ├どうしたんだ。
パリス ┘
侍僮 いんえ、何でもございません。何でもございませんのです。先生が庭の離れから画を持って来いとお仰《お》せになりましたので。
チチアネルロ どうなさろうと云うんだろう。
侍僮 画を御覧になりたいとおっしゃるのです。「無慙《むざん》にも色の褪せた陳《ふる》いのと、今かいている新しいのと較べて見たい。もとたいへんむずかしいと思ったことが今でははっきりと分って来た。今まで思いも寄らなかった悟《さとり》がやって来た。実際今までは仕様のないぼんくらだったわい。」こうおっしゃいますので。お吩咐《いいつけ》通りにして差支ございませんでしょうか。
チチアネルロ ああ好い、往け、構わない、早く往け。お前たちがぐずぐずしていれば、その刻々お苦しみになるんだ。
[#ここから3字下げ]
その間に小厮《こもの》たちは舞台を行き過ぎてしまう。階段のところで侍僮、小厮たちに追いつく。チチアネルロは足を爪立てて歩み寄り、そっと幕を掲げて後方に入る。あとの人々は心安からぬ様にあちこちと歩んでいる。
[#ここで字下げ終わり]
[#ここから改行天付き、折り返して1字下げ]
アントオニオ (小声で。)恐ろしいものだな。臨終。言いようもない……。神に近いもの、先生……吃《ども》り吃り……何か訴えるように……。
チチアネルロ (戻って来ながら。)今はまた少し落ち着いて来られた。蒼《あお》いお顔から、後光がさしている。いやお画きになる、お画きになる。目付も穏かだ。むすめたちと何時《いつ》ものように話しておいでになる。
アントオニオ じゃ、僕たち、暫《しばら》く石段の上で横になっていよう。また容体がお変りになるまで、そうしていよう。
[#ここから3字下げ]
人々|磴《いしだん》の上に蹲《うずくま》る。チチアネルロはジヤニイノの髪を弄《もてあそ》ぶ。その目半ば閉ず。
[#ここで字下げ終わり]
[#ここから改行天付き、折り返して1字下げ]
バチスタ (半ばは自分に言うが如く。)段々悪く……それからいよいよいけなく……いやいや。そんな事はない。段々悪くなると云う容体。そんな容体がまるで終ってしまった後でなければ、いよいよいけないって時にはならない。ああ、この先の、生のない、声のない、落莫《らくばく》たる世間……いや、今日はまだそんな事は考えられない……だが明日《あす》は、明日はそうなるだろう。
[#ここから3字下げ]
間。
[#ここで字下げ終わり]
[#ここから改行天付き、折り返して1字下げ]
ジヤニイノ 僕はもうすっかり労《つか》れた。
パリス 蒸し暑い風のせいだ。南風のせいだ。
チチアネルロ (笑いながら。)こいつ、昨夜《ゆうべ》一晩中起きていやがった。
ジヤニイノ (腕にもたれて。)うむ。そりゃ全く初めてのことだ、僕が一晩中起きていたなどは。だが君、どうして知っている。
チチアネルロ そりゃ分る。初《はじめ》のうちは、僕のそばで、まだ君の静かな息がして居った。そのうち君は立ち上った。そして石段へ腰をかけたじゃないか……。
ジヤニイノ そうだ。蒼い――呼吸《いき》をしている夜《よる》、何か謎のような叫喚が絶えず聞えるような気がしたんだ。「自然」のうちに眠《ねむり》なんていうものは、どこを捜したってなかったんだ。深い息づかい、濡《ぬ》れた脣《くちびる》、「自然」はまっ暗闇の中に這《は》いつくばって、一心に、秘密の物のけはいを偵察していたのだ。ぽたぽた
次へ
全3ページ中1ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
ホーフマンスタール フーゴー・フォン の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング