と、ざわざわと、星の閃《ひらめ》きが柔かな、不眠の広野の上に落ち散る。重く血を満した凡ての果実が、黄いろい月、そのふくよかな光のうちに膨らむ。月が動き、凡ての泉が輝き、荘厳《そうごん》の大諧調|立所《たちどころ》に目をさます。その時雲が急に行き過ぎて、柔い素足の残す跫音《あしおと》かと思われた……で、僕はそっと起き上った――それまでは君にもたれていたのだった――。
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かく話しつつ立上る。チチアネルロの方に身を屈げて。
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  夜を罩《こ》めて気持のよいものの音《ね》がたゆたい、まっ黒な月桂の樹陰《こかげ》に、暗香それと知られたるヘスペリスの花壇に沿うて立つファウンの大理石の手に弄《もてあそ》ばるる笛の、ゆるやかな歎息《ためいき》かなぞ聴いてでもいるようだったぜ。そいつ、大理石の色に光って、静かにそこに立っていたが、そのまわりには銀碧《ぎんぺき》の色|湿《うるお》う茂みに、柘榴《ざくろ》の花は口を開いてゆすぶれてい、沢山の蜂のそこに飛んでいるのがありありと見えた。その鮮紅の裡に潜んで、ひたぶるに吸いに吸い、夜の香、また熟したる露に酔いしれているようであった。暗闇の静かな息づかいが庭の物の香を僕の額《ひたい》に吹き寄せ、僕は、おや、何《なん》か柔いなよなよとした衣裳のかすれて行ったのかな、温い手の手触りかなと思ったんだ。白絹のように白い月の光には、恋に狂う蚊《か》の群が舞踊していた。池の面には微《かす》かな閃光《せんこう》が浮び、ぴたぴたと音《ね》を立てて、上下《うえした》に浮き沈みした。だが今でも分らないんだ。確《たしか》に白鵠《はくちょう》であったろうか、それとも水浴するナイアスの白い素肌であったのかしら。女の髪の毛の甘い匂のように、更にまた蘆薈《ろかい》の香《か》が雑った……ところがそんな一切の有像《うぞう》が忽《たちま》ち一つに融合してしまったんだ。強靱無比な、堅牢な一大荘厳――思想も言葉も絶したんだ。
アントオニオ 君は羨《うらや》ましい人間だな。そんな事を観て来たのか。暗闇の裡で起るそんないろいろな事象を。
ジヤニイノ 僕は半分夢の中にいたんだ。それで、ふらふらと歩いて、市《まち》の見下せる処まで往った。市は脚下に息《やす》らって居り、月と河とで取巻く光輝の衣《ころも》のうちに身を埋め、ひそひそとささやいた。そのさざめきをば、ともすると、さらりと夜風が伝えて来た。物の化《け》か幽霊のような、あやしくひそやかなその響を。異様に、恐ろしく、ひいやりと、薄気味わるく。物の音を耳には聴いたが、何《なん》にも考えることは出来なくなったんだ。それでもその時|忽然《こつぜん》として、万事が会得せられたのだね。あの市街の石のような沈黙のうちに、僕は見たんだ、蒼涼《そうりょう》たる夜《よる》の流に包まれて紅き血汐の暴いバッカントの踊るのを。その屋根屋根を廻《めぐ》って燐光の燃え、怪しい物かげのゆらゆらと反映するのを。僕はその時はっと思いついた。ああ市《まち》は眠っている。だが狂酔と苦患《くげん》とは目を覚ましている。憎悪、精霊《せいれい》、熱血、生命、みんな目を覚ましている。生命、命《いのち》あるもの、最も力あるもの――人はそれを持っていながら往々忘れていることがあるね。
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一瞬時瞑目する。
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  いろんなことで僕はすっかり疲れてしまったんだ。その一夜《ひとよ》に見たことは実際多過ぎるくらいだったんだ。
デジデリオ (欄干に倚《よ》りかかっているジヤニイノに。)だがこの市が、今下でどんな様子だか見てごらんよ。夕|靄《もや》と金色《こんじき》の残照に包まれ、薔薇《ばら》色した黄、明るい鼠《ねずみ》、その裾《すそ》は黒い陰の青、うるおいのある清らかさ、ほれぼれとする美しさだ。だがその暗示を満した靄の裡には、実はいやな事、つまらない事が一ぱいなんだ。そこの動物たちには唯狂暴があるばかりだ。遠見《とおみ》にはうまく隠してあるが、そこへ往って見ると、美などと云うものをば少しも知らない奴どもがうようよ、ごたごたと、味もそっけもなく充満しているんだ。彼等はその世界をわれわれの使うと同じ言葉で形容してはいるが、それは唯言葉の響だけで、われわれの歓喜、われわれの苦悩とはまるで似もつかぬものなんだ。われわれは深い眠に陥っているが、彼等の眠というものは全くの別物なんだ。あすこで眠っているものは猩紅《しょうこう》の血、黄金の蛇だ。巨人《チイタン》の槌《つち》を振う山が眠っているばかりだ。そして牡蠣《かき》の※[#「りっしんべん+(「夢」の「夕」に代えて「目」)」、第4水準2−12−81]然《ぼうぜん》たるが如くに、彼等はそこに眠るんだ。
アントオニオ (半ば立上って。)だから先生は庭に高い柵を廻らされたんだ。外界は唯さまざまの花の垣の透き間から――そうだ、視るのではなくて――想像すべきなんだ。
パリス (同じく。)それは紆余曲折の道の教だ。
バチスタ (同じく。)それこそ大きな「背景の芸術」と称せらるべきものだ。定かならぬ光の秘密だ。
チチアネルロ (目を閉して。)消えかけた物の音《ね》。死せる詩人の明かならざる言葉、凡ての諦め去った事がらの美しく見えるのはそれだ。
パリス 過ぎし日の魅力ある所以《ゆえん》だ。限り知れぬ美しさの源はそれだ。慣れ切った事は、実際われわれを窒息せしめる。
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みな沈黙す。間。チチアネルロひそかに哭《な》く。
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ジヤニイノ (機嫌を取る。)君、そんなにがっかりしてしまってはいけない。何時《いつ》までも一つ事ばかり考えていてはいけないよ。
チチアネルロ (傷ましく笑いながら。)君は、痛恨というものが、永久に一事を思い煩《わずら》うこと――結局色も香もなく空虚になってしまうまで――と、まるで、別物でもあるかのように考えているようだね。だが僕には思い煩うことを許してくれたまえ。実際僕はもう疾《と》うに、悩みからも、楽しみからも、色々の小袖は剥《は》ぎ捨ててしまったんだ。まだ苦労を知らない人は、それをいろいろの幻想で飾るね。ところが僕はもう、そんなものは感ずることが出来なくなっちゃったんだ。
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間。ジヤニイノはかたえの階段に至り、頭を腕に埋めて居睡《いねむり》する。
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パリス だがジョコンドはどこにいるだろう。
チチアネルロ 疾《と》うに、夜明前に――その時君等はまだ寝《ね》ていたが――そっと門の外へ出て往った。青い額《ひたい》へ愛の接吻、その脣へ悋気《りんき》の言葉……。
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侍僮等、二幀の画図を携え、舞台を横ぎり過ぐ。一の画はウェヌスと花と、一の画は酒神祭。弟子たち皆起き出で、画図の行き過ぎるまで額を垂れ、帽子を手にして立ち尽す。
しばしの間の後に、人々は皆立ちてあり。
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デジデリオ 誰かよく生きる、彼《かれ》の後《のち》に。芸術家にして真に命《いのち》を有するもの、その精神は高らかに能《よ》く万象を馴致し、単純にして且《か》つ賢きこと童子の如きもの、果して有るを得るか。
アントオニオ 誰か能く彼の天稟《てんぴん》に参通し得る者ぞ。
バチスタ 誰かよく彼の知識の前に悚然《しょうぜん》たらざるを得るか。
パリス 誰か能くわれわれの芸術家でありや否やを断じ得る者ぞ。
チチアネルロ 生のない森をば彼は生かした。褐色の池のぴたぴたと音《ね》を立てる処、蔦の葉の山毛欅《ぶな》の幹にまとわる処、その空寂の裡に彼は能く神々を拉《らつ》し来《きた》った。サチロスはその笛を以てシリンクスを喚び起し、あらゆる物をして欲望に膨れしめた。そして牧人は牧女に伍して……。
バチスタ 引いて行く、実質もない雲には彼は心を賦与した。被衣《かつぎ》のような、淡い、白いひろがりをば、淡く甘美なる※[#「りっしんべん+淌のつくり」、第3水準1−84−54]※[#「りっしんべん+兄」、第3水準1−84−45]《しょうこう》の心と解いた。金の覆輪を置いた黒い物々しい雲の洶湧《きょうよう》、笑いながら膨れ上る円い灰色の雲、宵々に棚引く銀紅の雲、それ等は皆魂を持っている。彼に由って心を獲来《えきた》ったのだ。裸《はだか》の薄青い岩から、緑の波のたぎり飛ぶ白い飛沫《しぶき》から、黒い広野の微動だにしない夢想から、雷に撃《う》たれた※[#「木+解」、第3水準1−86−22]《かしわ》の樹の悲哀から、凡てそれ等のものから我々の理解し得る人間的のものを作り来り、又われわれに夜《よる》の物の化《け》を見ることを教えてくれた。
パリス 彼はわれわれを半夜より起し、われわれの心を明るくし且《か》つ豊富にしてくれた。日々《にちにち》の流れ、差す潮引く潮を戯曲として味い、あらゆる形の美を理解し、又われわれの内心を凝視する術を教えてくれた。女、花、波、絹、黄金、また色|斑《まだ》らなる石の光、高き橋、春の渓谷、その水晶なす泉のほとりには金髪のニンフの群れる――また人の唯夢にのみ見るを得るもの、またわれわれを取囲む醒《さ》めた現実、それ等は凡て彼の心中に浸透して後、初めてその美を得来《えきた》ったのだ。
アントオニオ 丈高く美しい人には歌謡の舞蹈《ぶとう》、色斑らなる仮面には炬火《たいまつ》の光、臥し眠る心にはさゆらぎの律動を鳴らす音楽、わかき女には鏡、花には明るい温い太陽の光、即ち一つの眼《まなこ》――美が初めて自己を認める調和の源……それ等のものをば、自然は彼の内心の光のうちに発見したのだ。「われ等を喚び起したまえ、われ等よりバッコスの祭を作りたまえ。」凡そ生きとし生けるものは彼を慕い、言葉は出さねども、彼の眼差《まなざし》をうち見つめつつ、かくは叫んだのだ。
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アントオニオがかく話しているうちに、三人の少女たちは静かに戸より離れ、立ち止ってそっとその話を聴く。唯チチアネルロのみはやや懶《ものう》げに、且つ気乗りせぬげに右手の方に群を離れて立ち、少女たちを眺めている様子。ラヴィニアは金髪を黄金の綱にて留め、ヴェネチア貴族として豪華のいでたちをしている。カッサンドラ及びリザは年の頃十九歳、十七歳ばかりにして、しなやかに身に附き、ひらしゃらとなびく白き地質の衣を着ている。腕はあらわにて、その上膊には蛇形の黄金の環をはめ、サンダアルを穿《うが》ち、黄金の細工の帯を締めている。カッサンドラは灰がかりたる金髪。リザは黄いろき薔薇の蕾《つぼみ》を黒髪にかざしている。どことなく壮《わか》き男のようなる処あること、恰《あたか》もジヤニイノに処女《むすめ》処女したる処あるに似ている。彼等の後方には一侍僮戸口から出て来る。手に打ち出し模様の銀の酒杯を携えている。
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アントオニオ 夢みるように、夕風のうちに立つ遠い樹の茂りのおもしろさ……。
パリス 青い入江を行き過ぐる倏忽《しゅっこつ》の白帆のかげに美を覚り……。
チチアネルロ (軽く首を下げて少女たちに会揖《かいゆう》しながら。――少女たち皆その方を向く。)あなたがたの髪のにおいを、その沢《つや》を、またあなたがたの形の象牙の白さを、柔かに巻く黄金の帯を、音楽として、幸福として感ずるのは――畢竟《ひっきょう》、先生が僕たちに、物を見ることを教えてくだすったからなんですよ。(苦渋の調子にて。)だがあの下の町の人々にはそんな事は一切分らないでしょう。
デジデリオ (少女たちに。)先生はおひとりなのですか。誰も往ってはいけないのですか。
ラヴィニア ここにいろとおっしゃりました。今は誰も来てはいけないのですって。
チチア
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