ネルロ ああ、死よ、今静かに身を屈め、この美しき酔のうちに、この沈黙のうちに来れ。
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凡ての人々沈黙する。
ジヤニイノ目を覚ます。いま人の語りたる言葉の最後の句を聴きながら身を起す。顔色|甚《はなは》だ蒼白である。
気づかわしげに人々の顔を見較べる。
凡ての人々沈黙している。
ジヤニイノ一歩チチアネルロに近づく。そこに立ち止り身を顫《ふる》わす。突然前方に独り立てるラヴィニアの前に身を投げてその膝《ひざ》に己が頭を圧《お》しつける。
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ジヤニイノ 死。ラヴィニア、恐怖が僕を掴《つか》む。僕は死にこんなに近寄ったことは嘗《かつ》てない。我等は凡て死す。この言葉は今後決して念頭を離れないでしょう。他の人々が笑っている処でも、いつも僕は黙って死のそばに立っているでしょう。そしてわれ等は凡て死なねばならぬ、とそう考えるでしょう。僕はいつか見たことがあった。人が大勢で歌を唱って一人の人を送っていた。そしてその人は死ぬべき運命に在る人だったのです。その人はよろめきながら歩を運んだ。そして廻りの人々を見た。そよ風に陰深いさ枝を動かす樹々を眺めた。ラヴィニア、僕たちも同じ道を行かなけりゃならないのですね。ラヴィニア、僕ちょっとの間、眠ってたのです、あの階段のところで。そしてふと目を覚まして、耳に入れた第一の言葉は死というのでしたよ。
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身を顫わす。
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  ああ、あんな暗闇が空《そら》から下りて来る。
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ラヴィニア背を伸して立つ。眼差《まなざし》は明るい空の方に向けている。ジヤニイノ髪を繊手にて撫《な》でる。
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ラヴィニア 暗闇なんぞ見えないわ。蝶々の舞っているのが見えるばかりよ。星が光って来た。家の内では一人の老人が休息に行く。その最後の歩みにも少しの疲労がない。高らかに足音が響くわ。
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ラヴィニアかく言いて、家の入口の扉に背を向けていると、或る目に見えぬ手、帷幔を音無く、然《しか》し力烈しく側《かた》えに引く。皆々チチアネルロを先頭にして、音を立てず、息をこらして、階段を登りて、その方へ駆け入る。
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ラヴィニア (静かに語り続ける。声段々に高くなる。)祝うべきかな生。実在の網に捕われ、いかなる時も息《いき》深くして思い煩わず、美しき流れに逞《たくま》しき手足を任す人こそめでたけれ。流れはその人の美しき岸に打ち寄する……。
[#ここから3字下げ]
ラヴィニア突然語を止む。あたりを見廻す。何事の起りしかを感知して、また他の人々の後に続いて行く。
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ジヤニイノ (尚|跪《ひざまず》いてあり。身を顫わしつつ独りごつ。)ああ事は過ぎた。
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ジヤニイノ立ち上り、また他の人々に続く。
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[#地から2字上げ](幕)



底本:「書物の王国13 芸術家」国書刊行会
   1998(平成10)年10月25日初版第1刷発行
底本の親本:「木下杢太郎全集19」岩波書店
   1982(昭和57)年3月
※複数行にかかる中括弧には、けい線素片をあてました。
入力:川山隆
校正:noriko saito
2007年8月10日作成
青空文庫作成ファイル:
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