狼疾記
中島敦
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)何か頻《しき》りに
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)嘴《くちばし》の二|呎《フィート》もありそうな鳥
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)※[#「鼬」の「由」に代えて「晏」、第3水準1−94−84]鼠《もぐら》
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[#ここから14字下げ、ページの左右中央に]
養其一指、而失其肩背、而不知也、則為狼疾人也。
[#ここで字下げ終わり]
[#地から4字上げ]――孟子――
[#改ページ]
一
スクリインの上では南洋土人の生活の実写がうつされていた。眼の細い・唇の厚い・鼻のつぶれた土人の女たちが、腰にちょっと布片を捲いただけで、乳房をぶらぶらさせながら、前に置いた皿のようなものの中から、何か頻《しき》りにつまんで喰べている。米の飯らしい。丸裸の男の児が駈けて来る。彼も急いでその米をつまんで口に入れる。口一杯頬張りながら眩《まぶ》しそうに此方へ向けた顔には、眼の上と口の周囲とに膿み爛《ただ》れた腫物が出来ている。男の児はまた向うをむいて喰べ始める。
それが消えて、祭か何かの賑かな場面に代る。どんどんどんどんと太鼓の音が遠くなり近くなりして聞える。対《むか》い合った男女の列が一斉に尻を振りながら、それに合わせて動き出す。砂地に照りつける熱帯の陽の強さは、画面の光の白さで、それとはっきり[#「はっきり」に傍点]想像される。太鼓が響く。乱暴な男声の合唱がそれに交って聞えて来る。尻が揺れ、腰に纏《まと》った布片がざわざわ[#「ざわざわ」に傍点]と揺れる。踊《おどり》から少し離れた老人たちの中心に、酋長《しゅうちょう》らしい男が胡坐《あぐら》をかいている。痩《や》せた・顴骨《かんこつ》の出た老人で、頸《くび》に珠数のような飾を幾つも着けている。撮影されていることを意識してか、妙に落着の無い・蕃地での自信をすっかり[#「すっかり」に傍点]なくしてしまったような眼付をして、踊を眺めている。時々思い出したように乱暴な飛躍と喚声と太鼓の強打とを伴うほか、いつまで経っても同じような単調な踊を、しょぼしょぼした目でじっと見詰めている。
見ている中に、三造は、久しく忘れていた或る奇妙な不安が、いつの間にかまた彼の中に忍び込んで来ているのを感じた。
久しい以前のことである。その頃三造はこういうものを――原始的な蛮人の生活の記録を読んだり、その写真を見たりするたびに、自分も彼らの一人として生れてくることは出来なかったものだろうか、と考えたものであった。確かに、とその頃の彼は考えた。確かに自分も彼ら蛮人どもの一人として生れて来ることも出来たはずではないのか? そして輝かしい熱帯の太陽の下に、唯物論も維摩居士《ゆいまこじ》も無上命法も、ないしは人類の歴史も、太陽系の構造も、すべてを知らないで一生を終えることも出来たはずではないのか? この考え方は、運命の不確かさについて、妙に三造を不安にした。「同様に自分は」と、彼は考え続ける。「自分は、今の人間とは違った・更に高い存在――それは他の遊星の上に棲《す》むものであろうと、あるいは我々の眼に見えない存在であろうと、または、時代を異にした・人類の絶滅したあとの地球上に出て来るものであろうと、――に生れて来ることも可能だったのではないか? その正体が解らない故に我々が恐怖の感情を以て偶然[#「偶然」に丸傍点]と呼んでいるものが、ほんのちょっとその動き方を変えさえしたなら、そのような事が自分に起らなかったと誰が言えよう。そして、もしも自分がそのような存在に生れていたとすれば、今の自分には見ることも聞くことも、ないしは考えることも出来ないような・あらゆる事を見、聞き、考えることが出来たであろう。」こう考えるのは彼にとって堪えがたく恐ろしいことであった。と同時に、堪えがたくいらだたしい[#「いらだたしい」に傍点]ものでもあった。この世には自分に見ることも聞くことも考えることも(経験的にではなく能力上)出来ないものが有り得る。自分が違った存在であったら考えることが出来たであろうことを、自分が今の存在であるばかりに考えることも出来ぬ。こう考えて来ると、漠とした不安の中にありながら、なお当時の三造は、一種の屈辱に似たものを覚えるのであった。
スクリインでは先刻の踊の場面が消えて密林の風景にかわっている。手と尾との長い真黒な猿が幾匹となく枝から枝へと跳渡っている。ひょいと[#「ひょいと」に傍点]立止って此方を見た・その猿の一匹は、眼の縁に白い輪がかかっていて、眼鏡をかけているように見える。嘴《くちばし》の二|呎《フィート》もありそうな鳥が厭な声を立てて枝から飛立つ。
三造の考えは再び「存在の不確かさ」に戻って行く。
彼が最初にこういう不安を感じ出したのは、まだ中学生の時分だった。ちょうど、字というものは、ヘンだ[#「ヘンだ」に傍点]と思い始めると、――その字を一部分一部分に分解しながら、一体この字はこれで正しいのかと考え出すと、次第にそれが怪しくなって来て、段々と、その必然性が失われて行くと感じられるように、彼の周囲のものは気を付けて見れば見るほど、不確かな存在に思われてならなかった。それが今ある如くあらねばならぬ理由が何処《どこ》にあるか? もっと遥かに違ったものであっていいはずだ。おまけに[#「おまけに」に傍点]、今ある通りのものは可能の中での最も醜悪なものではないのか? そうした気持が絶えず中学生の彼につき纏うのであった。自分の父について考えて見ても、あの眼とあの口と、(その眼や口や鼻を他と切離して一つ一つ熟視する時、特に奇異の感に打たれるのだったが)その他、あの通りの凡《すべ》てを備えた一人の男が、何故自分の父であり、自分とこの男との間に近い関係がなければならなかったのか、と愕然《がくぜん》として、父の顔を見直すことがその頃しばしばあった。何故あの通りでなければならなかったのか。他の男ではいけなかったのだろうか?……周囲の凡てに対し、三造は事ごとにこの不信を感じていた。自分を取囲んでいる・あらゆるものは、何と必然性に欠けていることだろう。世界は、まあ何という偶然的な仮象の集まりなのだろう! 彼はイライラ[#「イライラ」に傍点]していつもこのことばかり考えていた。時として何だか凡てが解りかけて来そうな気がすることもないではなかった。それは、つまりその場合その偶然が――何から何まで偶然だということが結局ただ一つの必然なのではないか、という・少年らしい曖昧な考え方であった。それで簡単に解答が与えられたような気がすることもあった。そうでない時もあった。そうでない時の方が遥かに多かった。幼い思索はいらいら[#「いらいら」に傍点]したはがゆさ[#「はがゆさ」に傍点]を感じながら、必然という言葉の周囲をどうどう[#「どうどう」に傍点]廻《めぐ》りしては再び引返して行った。
映画は古風な河蒸気が岸の低い川を下って行くところをうつしていた。蕃地の探検を終えた白人の一行が引揚げて行く所なのであろう。
それも消え、最後の字幕も消えると、パッと電燈が点《つ》いた。
映画館を出ると、三造は、早目の晩食を認《したた》めるために、近処の洋食屋にはいった。
料理を卓に置いて給仕が立去った時、二つ卓を隔てた向うに一人の男の食事をしているのが目に入った。その男の(彼は此方に左の横顔を見せていた。)頸《くび》のつけね[#「つけね」に傍点]の所に奇妙な赤っちゃけた色のものが盛上っている。余りに大きく、また余りに逞《たくま》しく光っているので、最初は錯覚かとよく見定めて見たが、確かに、それは大きな瘤《こぶ》に違いなかった。テラテラ光った拳大《こぶしだい》の肉塊が襟《カラー》と耳との間に盛上っている。この男の横顔や首のあたりの・赤黒く汚れて毛穴の見える皮膚とは、まるで違って、洗い立ての熟したトマトの皮のように張切った銅赤色の光である。この男の意志を蹂躪《じゅうりん》し、彼からは全然独立した・意地の悪い存在のように、その濃紺の背広の襟《カラー》と短く刈込んだ粗い頭髪との間に蟠踞《ばんきょ》した肉塊――宿主《やどぬし》の眠っている時でも、それだけは秘かに目覚めて哂《わら》っているような・醜い執拗な寄生者の姿が、何かしら三造に、希臘《ギリシヤ》悲劇に出て来る意地の悪い神々のことを考えさせた。こういう時、彼はいつも、会体の知れない不快と不安とを以て、人間の自由意志の働き得る範囲の狭さ(あるいは無さ[#「無さ」に傍点])を思わない訳に行かない。俺たちは、俺たちの意志でない或る何か訳の分らぬもののために生れて来る。俺たちはその同じ不可知なもののために死んで行く。げん[#「げん」に傍点]に俺たちは、毎晩、或る何ものかのために、俺たちの意志を超絶した睡眠[#「睡眠」に傍点]という不可思議極まる状態に陥る。……その時ひょいと、全然何の連絡もなしに、彼は羅馬《ローマ》皇帝ヴィテリウスの話を思出した。貪食家の皇帝は、満腹のために食事がそれ以上喰べられなくなるのを嘆いて、満腹すれば独得の方法で自《みずか》ら嘔吐し、胃の腑を空《から》にして再び食卓に向ったというのだ。何故こんな馬鹿げた話を思出したのだろう?
料理店の白い壁には大きな電気時計が掛かっていて、黄色い長い秒針が電燈の光を反射させながら、無気味な生物のように廻転している。容赦なく生命を刻んで行く冷たさで、くるくると絶間なく動いている。その下では中年の瘤男がせっせと[#「せっせと」に傍点]口を動かし、それにつれて頸の肉塊も少しずつ動くような気がする。
三造は、すっかり食慾をなくして、半分ほど残したまま、立上った。
掘割|沿《ぞ》いの道をアパアトへ向って彼は帰って行く。家々にも街頭にも灯ははいり始めたが、まだ暮れ切らない空の向うを、教会の尖塔や風変りな破風《はふ》屋根をもった山手の高台のシルウェットが劃《かぎ》っている。上げ汐と見え、河岸に泊っている汚らしい船々の腹に塵芥がひたひたと寄せている。水の上には明暗の交ったうそ[#「うそ」に傍点]寒い光が漂っているようだ。仄かな陰翳《かげ》が其処《そこ》から立昇り、立昇っては声もなく消えて行くのである。
気配は感じられても姿を現さない尾行者に蹤《つ》けられているような気持で、彼は独り河岸っぷちを歩いて行く。
小学校の四年の時だったろうか。肺病やみ[#「やみ」に傍点]のように痩《や》せた・髪の長い・受持の教師が、或日何かの拍子で、地球の運命というものについて話したことがあった。如何《いか》にして地球が冷却し、人類が絶滅するか、我々の存在が如何に無意味であるかを、その教師は、意地の悪い執拗さを以て繰返し繰返し、幼い三造たちに説いたのだ。後《のち》に考えて見ても、それは明らかに、幼い心に恐怖を与えようとする嗜虐症《しぎゃくしょう》的な目的で、その毒液を、その後に何らの抵抗素も緩和剤をも補給することなしに、注射したものであった。三造は怖かった。恐らく蒼《あお》くなって聞いていたに違いない。地球が冷却するのや、人類が滅びるのは、まだしも我慢が出来た。ところが、そのあとでは太陽までも消えてしまうという。太陽も冷えて、消えて、真暗な空間をただぐるぐると誰にも見られずに黒い冷たい星どもが廻っているだけになってしまう。それを考えると彼は堪らなかった。それでは自分たちは何のために生きているんだ。自分は死んでも地球や宇宙はこのままに続くものとしてこそ安心して、人間の一人として死んで行ける。それが、今、先生の言うようでは、自分たちの生れて来たことも、人間というものも、宇宙というものも、何の意味もないではないか。本当に、何のために自分は生れて来たんだ? それからしばらく、彼は――十一歳の三造は、神経衰弱のようになってしまった。父にも、親戚の年
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