上の学生にも、彼はこの事について真剣になって訊ねて見た。すると彼らはみんな笑いながら、しかし、理論的には、大体それを承認するではないか。どうして、それで怖くないんだろう? どうして笑ってなんかいられるんだろう? 五千年や一万年の中《うち》にそんな事は起りゃしないよ、などと言ってどうして安心していられるんだろう? 三造は不思議だった。彼にとって、これは自分一人の生死の問題ではなかった。人間や宇宙に対する信頼の問題だった。だから、何万年後のことだからとて、笑ってはいられなかったのだ。その頃彼は一匹の犬を可愛がっていた。地球が冷えてしまう時に、仮に自分が遭遇するものとすれば、最後に氷の張り詰めた大地に坑《あな》を掘って、その犬と一緒に其処にはいって抱合って死ぬことにするんだが、と、その有様を寝床へ入ってから、よく想像して見たりした。すると、不思議に恐怖が消えて、犬のいとしさ[#「いとしさ」に傍点]とその体温とが、ほのぼの[#「ほのぼの」に傍点]と思い浮べられるのであった。しかし大抵は、夜、床に就いてからじっ[#「じっ」に傍点]と眼を閉じて、人類が無くなったあとの・無意義な・真黒な・無限の時の流を想像して、恐ろしさに堪えられず、アッと大きな声を出して跳上ったりすることが多かった。そのために幾度も父に叱られたものである。夜、電車|通《どおり》を歩いていて、ひょいとこの恐怖が起って来る。すると、今まで聞えていた電車の響も聞えなくなり、すれちがう人波も目に入らなくなって、じいんと[#「じいんと」に傍点]静まり返った世界の真中に、たった一人でいるような気がして来る。その時、彼の踏んでいる大地は、いつもの平らな地面ではなく、人々の死に絶えてしまった・冷え切った円い遊星の表面なのだ。病弱な・ひねこびた・神経衰弱の・十一歳の少年は、「みんな亡びる、みんな冷える、みんな無意味だ」と考えながら、真実、恐ろしさに冷汗の出る思いで、しばらく其処に立停《たちどま》ってしまう。その中に、ひょいと気がつくと、自分の周囲にはやはり人々が往来し、電燈があかあかとつき、電車が動き、自動車が走っている。ああ、よかった、と彼はホッとするのであった。これがいつものことだった。(註1)(註2)
子供の時に中毒《あた》ったことのある食物が一生嫌いになってしまうように、このような・人類や我々の遊星への単純な不信が、もはや観念としてではなく、感覚として、彼の肉体の中に住みついてしまったのではないか、と三造は思う。今でも、空気の湿った午後の昼寝から覚めた瞬間など、どうにもならない・訳の分らない・恐ろしさ、あじきなさ[#「あじきなさ」に傍点]に襲われる。そういう時、彼はいつも昔のひねこびた小学生の恐怖を思い出さずにはいられない。概念の青臭い殻が実生活の錯綜の中に多少は脱ぎ棄てられた(と思われた)後も、なお、かつての不安の気持だけが、それだけ切離されていつまでも残っている。南米の駱馬《ファナコ》は太古、地球の氷河時代に、危険に襲われた時も其処だけは安全な或る避難所をもっていた。地球が今の世代になって彼らを襲う危険の性質も異《ことな》って来、かつての避難所ももはや意味をもたなくなったにもかかわらず、現在新大陸にいる駱馬は、死や危険の予覚を得た際には、皆必ず昔の彼らの祖先の避難所のあった場所を指して逃れようとするという。三造の不安もあるいはこうした類の前代の残存物かも知れぬ。しかし、このどうにもならぬ漠然とした不安が、往々にして彼の生活の主調低音《グルンド・バス》になりかねない。人生のあらゆる事象の底にはこの目に見えぬ暗い流れが走り、それが生の行手を、前後左右を劃《かぎ》っていて、街の下を流れる下水の如くに、時々ほんのちょっとした隙から微《かす》かな虚《むな》しい響を聞かせるように三造には思われた。彼がまだ多少は健康で、肉体的な感覚に酔っていた時でも、今のような消極的な独り居の生活を営んでいる時でも、常に、この底流の小さな響がパスカル風な伴奏となって、何処からともなく聞えていたのである。これがほんの僅かでも聞えて来る限り、あらゆる幸福も名誉も制限付きの名誉・幸福でしかない。
全く、この響を意識しまいとして、どんなに彼は努力したことであろう。心にもない説教を何度彼は自分に向って言い聞かせたことだろう。
「俺たちは最上の食物でなければ喰べないだろうか? 最上の衣服でなければ身に著けないだろうか? 最上の遊星でなければ棲《す》むに堪えぬと思うほどに俺たちが贅沢でないならば、今俺たちに与えられているものの中からも結構いい所が発見出来るのではないか……」云々《うんぬん》。
「簡単なオプティミズムへの途を教えてやろう。天才と才無き者、健康者と虚弱者、富豪と貧民との差といえども、生れて来た者と生を与えられざりし者との差には、比ぶべくもないではないか、という考え方はどうだ。」云々。
「この世において立派な生活を完全に生き切れば、神は次の世界を約束すべき義務を有《も》つ、と言った素晴らしい男を見るがいい。」……云々。
「汝は幸福ならざるべからず[#「汝は幸福ならざるべからず」に傍点]と誰が決めたか? 一切は、幸福への意志の廃棄[#「幸福への意志の廃棄」に傍点]と共に、始まるのだ。」云々。
その他、ジイドの『地の糧』だの、チェスタアトンの楽天的エッセイなどが、何と弱々しい声々で彼を説得しようとしたことだろう。しかし、彼は、他人から教えられたり強いられたりしたのでない・自分自身の・心から納得の行く・「実在に対する評価」が有《も》ちたかったのだ。曲りくねった論理を辿って見て、はて、俺の存在は幸福なのだぞ、と、自分を説得して見ねばならぬ幸福などでは仕方がなかったのだ。
時としてごく稀に、歓ばしい昂揚された瞬間が無いでもなかった。生とは、黒洞々たる無限の時間と空間との間を劈《つんざ》いて奔《はし》る閃光と思われ、周囲の闇が暗ければ暗いだけ、また閃《ひらめ》く瞬間が短かければ短かいだけ、その光の美しさ・貴さは加わるのだ、と真実そのように信じられることも、時としてある。しかし、変転しやすい彼の気持は次の瞬間にはたちまち苦い幻滅の底に落ち込み、ふだん[#「ふだん」に傍点]より一層惨めなあじきなさ[#「あじきなさ」に傍点]の中に自《みずか》らを見出すのが常である。だから、しまいには、そうした精神の昂揚の最中《もなか》に在ってすら、後の幻滅の苦々しさを警戒して、現在の快い歓びをも抑え殺そうと力《つと》めるようにさえなったのだ。
ところで、今、河岸に沿うて歩きながら、珍しくも、三造の中にいる貧弱な常識家が、彼自身のこうした馬鹿馬鹿しい非常識を哂《わら》い、警《いまし》めている。「冗談じゃない。いい年をして、まだそんな下らない事を考えているのか。もっと重大な、もっと直接な問題が沢山あるじゃないか。何という非現実的な・取るに足らぬ・贅沢な愚かさに耽《ふけ》っているのだ。それは既に人々が夙《と》うの昔に卒業してしまった事柄――あるいは余り馬鹿げ切っているので、てんで初めから相手にしない事柄の一つではないか? 少しは恥ずかしく思うがいい。」「本当に人々はもはやこの問題を卒業しているのだろうか?」と彼の中にいる、もう一人が反問する。
「全然解決の見込のない問題を頭から相手にしないという一般の習慣はすこぶる都合の良いものだ。この習慣の恩恵に浴している人たちは仕合せである。全くの所、多くの人はこんな馬鹿げた不安や疑惑を感じはしない。それならばこうしたことを常に感ずるような人間は不具なのかも知れぬ。跛者が跛足を隠すように俺もまたこの精神的異常を隠すべきだろうか? ところで、一体、その正常とか異常とか真実とか虚偽とかいう奴は、何だ? 畢竟《ひっきょう》、統計上の問題に過ぎんじゃないか。いや、そんな事はどうでもいい。何より大事なことは、俺の性情にとって、幾ら他人《ひと》に嗤《わら》われようと、こうした一種の形而上学的といっていいような不安が他のあらゆる問題に先行するという事実だ。こればかりは、どうにも仕方がない。この点について釈然としない限り、俺にとって、あらゆる人間界の現象は制限付きの意味しか有《も》たないのだから。ところで、これについて古来提出された幾多の解答は、結局この解疑が不可能だということを余りにも明らかに証明している。して見れば、俺の魂の安静のための唯一の必要事は、『形而上学的迷蒙の形而上学的放棄』だということになる。それは俺も知り過ぎるほど知っている。それでも、どうにもならないのだ。俺がこうした莫迦《ばか》げた事柄への貪婪《どんらん》を以て(しかも哲学者的な冷徹な思索を欠いて)生れて来ているということこそ、唯一のかけがえ[#「かけがえ」に傍点]の無い所与なのだ。結局各人は各様にその素質を展開するより外に手はない。幼稚だといって嗤《わら》われることを気にしたり、自分に向って自己弁護をしたりすることの方がよほどおかしいのだ。女や酒に身を持ち崩す男があるように、形而上的|貪慾《どんよく》のために身を亡ぼす男もあろうではないか。女に迷って一生を棒にふる男と比べて数の上では比較にはなるまいが、認識論の入口で躓《つまず》いて動きが取れなくなってしまう男も、確かにあるのだ。前者は欣《よろこ》んで文学の素材とされるのに、何故後者は文学に取上げられないのか。異常だからだろうか。しかし、異常者カサノヴァはあれほどに読者を有《も》っているではないか。」
しどろもどろの自己弁護の中に、ふと、彼はデュウラアの「メランコリヤ」という版画を――混乱の中に茫然と坐った天使の絶望を思い浮べた。既に四辺《あたり》は暗く、山手の教会堂の影も見分けが付かない。彼の歩いて行くすぐ傍を、和船が一艘、音も無く後から追抜いて行く。船尾の燈火が水に尾を曳《ひ》き、船は滑るように橋の下を左へ曲って行く。その動きに誘われるように、彼の考えの糸も、思わぬ脇道に外《そ》れ始める。
「畢竟、俺は俺の愚かさに殉ずる外に途は無いじゃないか。凡てが言われ、考えられた後に結局、人は己が性情の指さす所に従うのだ。その論議・思考と無関係に、である。そして爾後《じご》の努力は、凡て、その性情の為《な》した選択へのジャスティフィケイションにのみ注がれるであろう。考えようによれば、古往今来のあらゆる思想とは、各思想家がそれぞれ自己の性情に向って為したジャスティフィケイションに外ならぬではないか。……」
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(註1) このひねこびた憐れな少年は、その後二つの異った希求に烈しく悩まされた。「あらゆる事柄[#「あらゆる事柄」に傍点](あるいは第一原理)を知り尽くしたい」という慾望と、「出来る限り多くの事物が(あるいはその事物の原因が)自分の理解を絶した彼方にあればいい」という前のとはまるで[#「まるで」に傍点]反対の奇体な願望とであった。前者は誰にでもある・成人《おとな》の言葉でいえば「自己を神にしたい」慾望だったが、後者は「この世界を絶対信頼に値する・確乎たるものと信じたい」という・その逆の――つまり、この世界の不確かさ・哀れさに対する恐怖から生れた強い希求だった。「自分のようなチッポケな存在から凡てが理解されてしまうような世界では、その中に棲《す》むことが何としても不安だ。自分などにはその一端すら理解できないような・大きな・確乎たる存在に身を任せたい」という・小さい者の恐怖から生れた・棄鉢《すてばち》的な強い願望だった。こうした願いにもかかわらず、彼は成長するにつれ、第一の望の実現はもとより、それより更に強い第二のそれの実現もまた望のないものであることをはっきり[#「はっきり」に傍点]と――余りにも恐ろしくはっきり[#「はっきり」に傍点]と知らされて来た。世界も、人間の営みも、この少年の望むほど、しかく確乎たるものではない。それは小学校の先生に聞かされた世界滅亡説を熱力学の第二法則という言葉に置換えて見ても同じことだし、そうした単純な科学による
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