ていた俺は、何という人間知らず[#「人間知らず」に傍点]だったことであろう! 杜樊川《とはんせん》もセザアル・フランクもスピノザも填めることのできない孔竅《あな》が、一つの讃辞、一つの阿諛によってたちまち充たされるという・人間的な余りに人間的な事実に、(そして、自分のような生来の迂拙《うせつ》な書痴にもこの事実が適用されることに)三造は今更のように驚かされるのである。
まだ寝るには早過ぎる。それに、どうせ床に入ったところで、いつものように二・三時間は眠れないに決っている。三造は何ということもなく、身を起して、ベッドの端に腰を下したまま、ぼんやり部屋の中《うち》を眺める。二・三日前、机の抽斗《ひきだし》を掻廻していたら、紙屑にまじって線香花火の袋が出て来た。夏の終に入れ忘れられたもので、まだ中に花火が少し残っていた。それをその時そのまま、また抽斗につっこんで置いたのを、今、彼はひょいと思い出した。彼は立上って抽斗からそれを取出す。花火を出して見ると、まだ、そんなに湿ってはいないらしい。彼は電燈を消して、マッチを擦《す》る。暗闇に、細い・硬い・輝きのない・光の線が奔《はし》って、松葉が、紅葉《もみじ》が、咲いて、すぐに、消える。火薬の匂が鼻に沁み、瞬間淀み切っていた彼の心は、季節|外《はず》れの・この繊細な美しさにいささかの感動を覚えていた。余りにも惨めな・いじけた・侘びしい感動を。
三
静かな博物標本室の中。アリゲエタアや大蝙蝠《おおこうもり》の剥製だの、かものはし[#「かものはし」に傍点]の模型だのの間で三造は独り本を読んでいる。卓子の上には次の鉱物の時間に使う標本や道具類が雑然と並んでいる。アルコオル・ランプ、乳鉢、坩堝《るつぼ》、試験管、――うす碧《あお》い蛍石、橄攬石《かんらんせき》、白い半透明の重晶石や方解石、端正な等軸結晶を見せた柘榴石《ざくろいし》、結晶面をギラギラ光らせている黄銅鉱……余り明るくない部屋で、天井の明り窓から射してくる外光が、端正な結晶体どもの上に落ち、久しく使わなかった標本のうす[#「うす」に傍点]埃をさえ浮かび上がらせている。それら無言の石どもの間に坐って、その美しい結晶や正しい劈開《へきかい》のあと[#「あと」に傍点]を見ていると、何か冷たい・透徹した・声のない・自然の意志、自然の智慧に触れる思いがするのである。かなり騒々しい職員室から、三造はいつも、この冷たい石たちと死んだ動物植物たちの中へ逃れて来て、勝手な読書に耽《ふけ》ることにしていた。
今彼の読んでいるのは、フランツ・カフカという男の「窖《あな》」という小説である。小説とはいったが、しかし、何という奇妙な小説であろう。その主人公の俺[#「俺」に丸傍点]というのが、※[#「鼬」の「由」に代えて「晏」、第3水準1−94−84]鼠《もぐら》か鼬《いたち》か、とにかくそういう類のものには違いないが、それが結局最後まで明らかにされてはいない。その俺[#「俺」に丸傍点]が地下に、ありったけの智能を絞って自己の棲処《すみか》――窖を営む。想像され得る限りのあらゆる敵や災害に対して細心周到な注意が払われ安全が計られるのだが、しかもなお常に小心翼々として防備の不完全を惧《おそ》れていなければならない。殊に俺[#「俺」に丸傍点]を取囲む大きな「未知」の恐ろしさと、その前に立つ時の俺[#「俺」に丸傍点]自身の無力さとが、俺[#「俺」に丸傍点]を絶えざる脅迫観念に陥らせる。「俺[#「俺」に丸傍点]が脅されているのは、外からの敵ばかりではない。大地の底にも敵がいるのだ。俺[#「俺」に丸傍点]はその敵を見たことはないが、伝説《いいつたえ》はそれについて語っており、俺[#「俺」に丸傍点]も確かにその存在を信じる。彼らは土地の内部に深く棲むもの[#「もの」に傍点]である。伝説でさえも彼らの形状を画くことができない。彼らの犠牲に供せられるものたちも、ほとんど彼らを見ることなしに斃《たお》れるのだ。彼らは来る。彼らの爪の音を(その爪の音こそ彼らの本体なのだ)、君は、君の真下の大地の中に聞く。そしてその時には既に君は失われているのだ。自分の家にいるからとて安心している訳に行かない。むしろ、君は彼らの棲家にいるようなものだ。」ほとんど宿命論的な恐怖に俺[#「俺」に丸傍点]は追込まれている。熱病患者を襲う夢魔のようなものが、この窖に棲む小動物の恐怖不安を通してもやもやと漂《ただよ》っている。この作者はいつもこんな奇体な小説ばかり書く。読んで行くうちに、夢の中で正体の分らないもののために脅されているような気持がどうしても附纏《つきまと》ってくるのである。
その時、入口の扉《ドア》にノックの音がして顔を出したのは、事務のM氏であった。はいって来ると、「手紙が来ていましたから」と言って卓子の上に封筒を置いた。事務所とこの標本室とではかなり隔たっているから、わざわざ持って来てくれたのは、話相手を求めに来たに違いない。年齢《とし》は五十を越した・痩《や》せてはいないが丈の低い・しかし容貌は怪奇を極めた人物である。鼻が赤く、苺《いちご》のように点々と毛穴が見え、その鼻が顔の他の部分と何の連絡もなく突兀《とっこつ》と顔の真中につき出しており、どんぐりまなこ[#「どんぐりまなこ」に傍点]が深く陥《お》ち込んだ上を、誠に太く黒い眉が余りにも眼とくっ附き過ぎて、匍《は》っている。厚く、黒人式にむくれ返った唇の周囲をチョビ髭《ひげ》が囲んでいて、おまけに、染めた頭髪は(禿《はげ》は何処《どこ》にもないのだが)所によってその生え方に濃淡があり、一株ずつ他処《よそ》から移植したような工合であって、またそれが短いくせに、お釈迦様のそれのようにひどくねじれ縮れているのだ。
職員室の誰もがこのM氏を馬鹿にしているようだった。この人の名前を口にのせるたびにニヤリと笑わない者はない。なるほど、性行なども愚鈍らしく、言葉でも「そうした、もので、しょうなあ、」などと一語一語ゆっくりと自分の今の発音を自分の耳で確かめてから次の発音をするように続けて行く。もう二十年もこの学校に勤めているらしいが、その勤続年数よりもその間に幾人かの細君に死なれたり、逃げられたりしたという事の方が有名である。それに、もう一つ、職員と生徒との区別なく、若い女と見れば誰でもすぐに手を握る癖のあることもみんなに知られている。別に悪気《わるぎ》があるという訳ではなく(悪気をもつほどの頭の働きはこの人に無いと、一般に信じられている。)ただもう、抑えることも何も出来ずに、ひょいと握ってしまうものらしい。幾度悲鳴を上げられたり、つねられたり、睨《にら》まれたりしても、一向感じないし、感じても次の時には忘れてしまうのかも知れない。よく、それで馘《くび》にならないものだが、あの御面相だから大丈夫なんでしょう、と笑う職員もいる。このM氏が、誰も相手になってくれるものが無いせい[#「せい」に傍点]か、週に二日しか出て来ない三造をつかまえて、しきりに色々と話をしたがるのだ。私はフランス語をやります、というのだが、聞いて見ると、それがラジオの初等講義を一・二回聞いただけらしいのである。しかし本人は別に法螺《ほら》を吹くつもりで言っているのではなく、本当にそれでフランス語をやったといえるつもりなのである。この調子でM氏はドイツ語も漢詩も和歌も皆やるという。こういう話を聞きながら、三造は、M氏の鈍い眼付の中に何処か兇暴なものがあることに気のつくことがある。追い詰められた弱い者が突然攻勢に出て来る時のような自棄的なものがあるような気がするのである。
手紙を渡しても、果して、M氏はなかなか帰る様子もなく、アリゲエタアの剥製の下に腰を下して、例のゆっくり[#「ゆっくり」に傍点]した調子で話し始めた。その中に、どういうきっかけ[#「きっかけ」に傍点]からか、話が彼の現在の(彼よりも二十歳も年下の)細君のことになり、彼は大真面目で自分と結婚する前の彼女の閲歴などを語り出した。これは少しヘン[#「ヘン」に傍点]だぞ、と思っていると、M氏は手にした風呂敷包(今まで私は気づかずにいたのだが、それをわざわざ見せるためにM氏は私の処へ来たのだ)を開いて、中から分厚な一冊の本を取出して卓子の上に置いた。表紙を見ると、薄紫色の絹地に白い紙が貼られ、それに『日本名婦伝』と書かれている。
「家内のことがこれに載っています」とM氏はゆっくりゆっくり[#「ゆっくりゆっくり」に傍点]言ってから、嬉しそうににやり[#「にやり」に傍点]と笑った。
「?」三造は初め一向のみ込めなかったが、とにかくM氏の開けてくれた所――白樺の、女の子の喜びそうな栞《しおり》が挟んである――を見ると、なるほど、一頁が上下二段に分れていて、その上段にゴチックで彼の細君の名が記されている。それに続いて生年月日やら生処やら卒業の学校やらが書立てられ、さて、M氏に嫁するに及んで、貞淑にして内助の功少からず云々《うんぬん》……とあり、それから今度は奇妙なことに、一転して御亭主たるM氏自身の伝記に変って、彼の経歴から、資性温厚だとか、人以て聖人君子と為すとか、弔辞の中の文句に似た言葉が並んでいる。
やっと三造には凡《すべ》てがのみこめて来た。一種の詐欺出版のようなものにM氏は掛けられたのだ。――つまり、『日本名婦伝』とかいう書物の中に貴下の奥さんの記事を載せたいから、などと煽《おだ》て上げ、天下の愚夫愚婦から、相当な金額を絞り取り、下らぬ本を作ってはそれをまた高く売付けるという・話にも何にもならない・仕掛にかかったに違いないのである。しかもM氏は欺されたとは毛頭考えずに、得々として人ごとにこれを見せ廻っているらしい。それにこの文章は明らかにM氏自身の執筆である。
頁をめくって前の方を見ると、何と、紫式部、清少納言のたぐい[#「たぐい」に傍点]がずらり[#「ずらり」に傍点]と、やはりM夫人と同じ組方で、それぞれ一頁の半分ずつを占めて並んでいる。三造は目を上げてM氏を見た。三造の呆れた顔を感嘆の表情ととったものか、M氏は隠し切れない嬉しさを見せて鼻をうごめかしている。(彼が笑うと、黄色い歯が剥《む》き出され、それと共に、その赤い鼻が――誇張でも形容でもなく――文字通り、ヒクヒクとうごめくのである。)三造はすぐに目を俯《ふ》せた。堪えられない気がした。喜劇? そうかも知れぬ。しかし、これはまた、何と、やり切れない人間喜劇ではないか。腔腸《こうちょう》動物的喜劇? 三造は棚の上の小さなカメレオンの模型に目を外らしながら、ぼんやり、そんな言葉を考えた。
四
その夜M氏に誘われて、三造がおでん屋の暖簾《のれん》をくぐったのは、考えて見ると、誠に不思議な出来事であった。第一、M氏が酒をたしなむという事も初耳だったし、殊に外へ飲みに出るなどちょっと想像も出来ないところで、それに三造を誘うに至っては全く意外だった。M氏にして見れば、細君についての詳しい話をするほどに親しくなった(と、そう彼は思っているに違いない。)三造に、何かの形で好意を示さなければならないように感じたに違いない。誰にも相手にされない男が、たまに[#「たまに」に傍点]他人から真面目に扱われたと考え得た喜びが、彼を駆って、おでんや行《ゆき》などという・彼としては破天荒な挙に出させたのであろう。M氏の誘に応じた三造の気持も、我ながら訳の判らぬものであった。持病の喘息のため酒はほとんど絶っているのだし、M氏のようなえたい[#「えたい」に傍点]の知れない人物と今まで真面目に話をしたこともなし、だからその晩M氏につき合ったのは、M氏ののろのろ[#「のろのろ」に傍点]した薄気味の悪い・それでいて執拗な勧誘を断り切れなかったためというよりも、『名婦伝』で挑発された・この男への・意地の悪い好奇心のせい[#「せい」に傍点]だったかも知れない。
余り飲まない三造に、そう無理に勧めるでもなく、一人で盃を重ねる中に、M氏はその赤い鼻
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