人は別に法螺《ほら》を吹くつもりで言っているのではなく、本当にそれでフランス語をやったといえるつもりなのである。この調子でM氏はドイツ語も漢詩も和歌も皆やるという。こういう話を聞きながら、三造は、M氏の鈍い眼付の中に何処か兇暴なものがあることに気のつくことがある。追い詰められた弱い者が突然攻勢に出て来る時のような自棄的なものがあるような気がするのである。
 手紙を渡しても、果して、M氏はなかなか帰る様子もなく、アリゲエタアの剥製の下に腰を下して、例のゆっくり[#「ゆっくり」に傍点]した調子で話し始めた。その中に、どういうきっかけ[#「きっかけ」に傍点]からか、話が彼の現在の(彼よりも二十歳も年下の)細君のことになり、彼は大真面目で自分と結婚する前の彼女の閲歴などを語り出した。これは少しヘン[#「ヘン」に傍点]だぞ、と思っていると、M氏は手にした風呂敷包(今まで私は気づかずにいたのだが、それをわざわざ見せるためにM氏は私の処へ来たのだ)を開いて、中から分厚な一冊の本を取出して卓子の上に置いた。表紙を見ると、薄紫色の絹地に白い紙が貼られ、それに『日本名婦伝』と書かれている。
「家内のことがこれに載っています」とM氏はゆっくりゆっくり[#「ゆっくりゆっくり」に傍点]言ってから、嬉しそうににやり[#「にやり」に傍点]と笑った。
「?」三造は初め一向のみ込めなかったが、とにかくM氏の開けてくれた所――白樺の、女の子の喜びそうな栞《しおり》が挟んである――を見ると、なるほど、一頁が上下二段に分れていて、その上段にゴチックで彼の細君の名が記されている。それに続いて生年月日やら生処やら卒業の学校やらが書立てられ、さて、M氏に嫁するに及んで、貞淑にして内助の功少からず云々《うんぬん》……とあり、それから今度は奇妙なことに、一転して御亭主たるM氏自身の伝記に変って、彼の経歴から、資性温厚だとか、人以て聖人君子と為すとか、弔辞の中の文句に似た言葉が並んでいる。
 やっと三造には凡《すべ》てがのみこめて来た。一種の詐欺出版のようなものにM氏は掛けられたのだ。――つまり、『日本名婦伝』とかいう書物の中に貴下の奥さんの記事を載せたいから、などと煽《おだ》て上げ、天下の愚夫愚婦から、相当な金額を絞り取り、下らぬ本を作ってはそれをまた高く売付けるという・話にも何にもならない・仕掛にかかったに違いないのである。しかもM氏は欺されたとは毛頭考えずに、得々として人ごとにこれを見せ廻っているらしい。それにこの文章は明らかにM氏自身の執筆である。
 頁をめくって前の方を見ると、何と、紫式部、清少納言のたぐい[#「たぐい」に傍点]がずらり[#「ずらり」に傍点]と、やはりM夫人と同じ組方で、それぞれ一頁の半分ずつを占めて並んでいる。三造は目を上げてM氏を見た。三造の呆れた顔を感嘆の表情ととったものか、M氏は隠し切れない嬉しさを見せて鼻をうごめかしている。(彼が笑うと、黄色い歯が剥《む》き出され、それと共に、その赤い鼻が――誇張でも形容でもなく――文字通り、ヒクヒクとうごめくのである。)三造はすぐに目を俯《ふ》せた。堪えられない気がした。喜劇? そうかも知れぬ。しかし、これはまた、何と、やり切れない人間喜劇ではないか。腔腸《こうちょう》動物的喜劇? 三造は棚の上の小さなカメレオンの模型に目を外らしながら、ぼんやり、そんな言葉を考えた。

       四

 その夜M氏に誘われて、三造がおでん屋の暖簾《のれん》をくぐったのは、考えて見ると、誠に不思議な出来事であった。第一、M氏が酒をたしなむという事も初耳だったし、殊に外へ飲みに出るなどちょっと想像も出来ないところで、それに三造を誘うに至っては全く意外だった。M氏にして見れば、細君についての詳しい話をするほどに親しくなった(と、そう彼は思っているに違いない。)三造に、何かの形で好意を示さなければならないように感じたに違いない。誰にも相手にされない男が、たまに[#「たまに」に傍点]他人から真面目に扱われたと考え得た喜びが、彼を駆って、おでんや行《ゆき》などという・彼としては破天荒な挙に出させたのであろう。M氏の誘に応じた三造の気持も、我ながら訳の判らぬものであった。持病の喘息のため酒はほとんど絶っているのだし、M氏のようなえたい[#「えたい」に傍点]の知れない人物と今まで真面目に話をしたこともなし、だからその晩M氏につき合ったのは、M氏ののろのろ[#「のろのろ」に傍点]した薄気味の悪い・それでいて執拗な勧誘を断り切れなかったためというよりも、『名婦伝』で挑発された・この男への・意地の悪い好奇心のせい[#「せい」に傍点]だったかも知れない。

 余り飲まない三造に、そう無理に勧めるでもなく、一人で盃を重ねる中に、M氏はその赤い鼻
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