る。かなり騒々しい職員室から、三造はいつも、この冷たい石たちと死んだ動物植物たちの中へ逃れて来て、勝手な読書に耽《ふけ》ることにしていた。
今彼の読んでいるのは、フランツ・カフカという男の「窖《あな》」という小説である。小説とはいったが、しかし、何という奇妙な小説であろう。その主人公の俺[#「俺」に丸傍点]というのが、※[#「鼬」の「由」に代えて「晏」、第3水準1−94−84]鼠《もぐら》か鼬《いたち》か、とにかくそういう類のものには違いないが、それが結局最後まで明らかにされてはいない。その俺[#「俺」に丸傍点]が地下に、ありったけの智能を絞って自己の棲処《すみか》――窖を営む。想像され得る限りのあらゆる敵や災害に対して細心周到な注意が払われ安全が計られるのだが、しかもなお常に小心翼々として防備の不完全を惧《おそ》れていなければならない。殊に俺[#「俺」に丸傍点]を取囲む大きな「未知」の恐ろしさと、その前に立つ時の俺[#「俺」に丸傍点]自身の無力さとが、俺[#「俺」に丸傍点]を絶えざる脅迫観念に陥らせる。「俺[#「俺」に丸傍点]が脅されているのは、外からの敵ばかりではない。大地の底にも敵がいるのだ。俺[#「俺」に丸傍点]はその敵を見たことはないが、伝説《いいつたえ》はそれについて語っており、俺[#「俺」に丸傍点]も確かにその存在を信じる。彼らは土地の内部に深く棲むもの[#「もの」に傍点]である。伝説でさえも彼らの形状を画くことができない。彼らの犠牲に供せられるものたちも、ほとんど彼らを見ることなしに斃《たお》れるのだ。彼らは来る。彼らの爪の音を(その爪の音こそ彼らの本体なのだ)、君は、君の真下の大地の中に聞く。そしてその時には既に君は失われているのだ。自分の家にいるからとて安心している訳に行かない。むしろ、君は彼らの棲家にいるようなものだ。」ほとんど宿命論的な恐怖に俺[#「俺」に丸傍点]は追込まれている。熱病患者を襲う夢魔のようなものが、この窖に棲む小動物の恐怖不安を通してもやもやと漂《ただよ》っている。この作者はいつもこんな奇体な小説ばかり書く。読んで行くうちに、夢の中で正体の分らないもののために脅されているような気持がどうしても附纏《つきまと》ってくるのである。
その時、入口の扉《ドア》にノックの音がして顔を出したのは、事務のM氏であった。はいって来ると、「手紙が来ていましたから」と言って卓子の上に封筒を置いた。事務所とこの標本室とではかなり隔たっているから、わざわざ持って来てくれたのは、話相手を求めに来たに違いない。年齢《とし》は五十を越した・痩《や》せてはいないが丈の低い・しかし容貌は怪奇を極めた人物である。鼻が赤く、苺《いちご》のように点々と毛穴が見え、その鼻が顔の他の部分と何の連絡もなく突兀《とっこつ》と顔の真中につき出しており、どんぐりまなこ[#「どんぐりまなこ」に傍点]が深く陥《お》ち込んだ上を、誠に太く黒い眉が余りにも眼とくっ附き過ぎて、匍《は》っている。厚く、黒人式にむくれ返った唇の周囲をチョビ髭《ひげ》が囲んでいて、おまけに、染めた頭髪は(禿《はげ》は何処《どこ》にもないのだが)所によってその生え方に濃淡があり、一株ずつ他処《よそ》から移植したような工合であって、またそれが短いくせに、お釈迦様のそれのようにひどくねじれ縮れているのだ。
職員室の誰もがこのM氏を馬鹿にしているようだった。この人の名前を口にのせるたびにニヤリと笑わない者はない。なるほど、性行なども愚鈍らしく、言葉でも「そうした、もので、しょうなあ、」などと一語一語ゆっくりと自分の今の発音を自分の耳で確かめてから次の発音をするように続けて行く。もう二十年もこの学校に勤めているらしいが、その勤続年数よりもその間に幾人かの細君に死なれたり、逃げられたりしたという事の方が有名である。それに、もう一つ、職員と生徒との区別なく、若い女と見れば誰でもすぐに手を握る癖のあることもみんなに知られている。別に悪気《わるぎ》があるという訳ではなく(悪気をもつほどの頭の働きはこの人に無いと、一般に信じられている。)ただもう、抑えることも何も出来ずに、ひょいと握ってしまうものらしい。幾度悲鳴を上げられたり、つねられたり、睨《にら》まれたりしても、一向感じないし、感じても次の時には忘れてしまうのかも知れない。よく、それで馘《くび》にならないものだが、あの御面相だから大丈夫なんでしょう、と笑う職員もいる。このM氏が、誰も相手になってくれるものが無いせい[#「せい」に傍点]か、週に二日しか出て来ない三造をつかまえて、しきりに色々と話をしたがるのだ。私はフランス語をやります、というのだが、聞いて見ると、それがラジオの初等講義を一・二回聞いただけらしいのである。しかし本
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