をますます赤くして脂を浮出させ、しかも絶えず黄色い歯を剥出《むきだ》してニヤニヤし続けている。そうして、例によってはっきり[#「はっきり」に傍点]しない言葉でゆっくりゆっくりまだ細君の話を続けている。かなり際どい話を、実に素朴な表現で、縷々《るる》として続ける。当人には別にそれが際どい話だという自覚はなく、ただもう話さずにはいられないで自《おの》ずと話しているらしい。閨房中のことについて何か今の奥さんに遺憾な点があるのだといって、締りのない口付でそれを長々と述べ、「大変残念なことです」と叮寧《ていねい》な言葉で、第三者のことをいうような言い方をするのである。一体どういう了見でこんな話をするのか、と、三造はしばらく、まともにこの男の顔を見返して見たが、結局、とりとめのない・ぬらぬらしたような笑いに空《むな》しく突離《つっぱな》されるだけだった。こんな話を聞く時には一体どんなポーズを取り、どんな顔付をすればいいのか、三造はすっかり当惑して、てれくささ[#「てれくささ」に傍点]を隠すために強いて盃を取上げるのである。
 気が付くと、三造の前の真白な瀬戸物皿の上に、いつの間に来たのか、それこそ眼の覚めるほど鮮やかな翠《みどり》色をしたすいっちょ[#「すいっちょ」に傍点]が一匹ちょこん[#「ちょこん」に傍点]と止って、静かに触角を動かしている。素直に伸びた翅《はね》の見事さ。白く強い電燈の光の下で、まことに皿までが染《にじ》んでしまいそうな緑色である。その白と緑とを見詰めながら、三造はなおしばらくM氏の奥さんの話を聞いていた。
 聞いている中に、いつもこの人間に対して感じる馬鹿馬鹿しさは消えてしまい、一種薄気味悪い恐ろしさと、へん[#「へん」に傍点]な腹立たしさ(直接M氏に対する怒りではない。また、現在立たされている自分の位置の馬鹿らしさに腹が立つのとも少し違う。)との交った・妙な気持に襲われて来た。

 知らぬ間に三造もかなり飲んでいたようで、しばらくは相手の話も一向耳に入らなかったが、そのうちに何か話し方が違うらしいのにふと気がついて見ると、M氏は既に奥さんの話を止めて、「ある他の事柄」について語っている。ある他の事柄について、などといったのは、それが今までのM氏の話題とはまるで異《ことな》って、(もちろん初めは何の事やらさっぱり意味が解らなかったが、聞いて行く中に段々判って来た所によると、)全く驚いたことに一種の抽象的な感想――いわば、彼の人生観の一片のようなものだったからである。但し、その表現はいつもの通り度を越して間《ま》の抜けたものであり、その発声は曖昧《あいまい》で緩慢で、かつ何度も同じ事を繰返すのだから、解りにくいこと夥《おびただ》しい。しかし、辛抱強く聞分けてその意味を拾い、それを普通の言葉に直して見ると、その時M氏の洩らした感懐は、大体次のようなものであった。
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――人生というものは、螺旋《らせん》階段を登って行くようなものだ。一つの風景の展望があり、また一廻《ひとまわ》り上って行けば再び同じ風景の展望にぶっつかる。最初の風景と二番目のそれとはほとんど同じだが、しかし微《かす》かながら、第二のそれの方がやや遠くまで見えるのである。第二の展望にまで達している人間にはその僅かの違いが解るのだが、まだ第一の場所にいる人間にはそれが解らない。第二の場所にいる人間も、自分と全く同じ眺望しかもち得ないと思っているのだ。事実、話す言葉だけを聞いていれば、二人の間にほとんど差異は無いのだから。――
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螺旋階段という代りに、グルグル廻ッテ登ッテ行クノガアリマスナ、ソラ、アノ、高イ塔ナンカニ上ル時ノダンダンニアリマスナ、グルグル廻ッテ昇ッテ行キナガラ、ズットアタリノ景色ガ見ラレルヨウナ、テスリ[#「テスリ」に傍点]ガ付イタリナンカシテイル、ダンダンガアリマスナ、という表現を幾回も繰返して聞かせる位で、以下これに準じて恐ろしくまわりくどく[#「まわりくどく」に傍点]、右の意味のことを言うだけで約三十分もかかるのだが、鉱石の中から乏しい金属を抽出するように、それをよく聞分けて見れば、確かに右のような意味になるのである。何だかモンテエニュでもいいそうなことのように思われ、三造はまた前とは違った意味でM氏の顔を見返した位だが、M氏は読書家ではないから決して書物などからこんな考えを仕入れて来たのではない。五十年の生涯の遅鈍な観察から生れた・彼自身の感想に違いない。こうした言葉を吐きそうな智慧の痕跡のおよそ窺《うかが》われないM氏の顔を見ながら、三造は次のように考え始めた。
 誰もがこの男を馬鹿にしているけれども、我々が、もしこの男ののろま[#「のろま」に傍点]な表現を理解してやるだけの忍耐を有《も》つ
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