はや観念としてではなく、感覚として、彼の肉体の中に住みついてしまったのではないか、と三造は思う。今でも、空気の湿った午後の昼寝から覚めた瞬間など、どうにもならない・訳の分らない・恐ろしさ、あじきなさ[#「あじきなさ」に傍点]に襲われる。そういう時、彼はいつも昔のひねこびた小学生の恐怖を思い出さずにはいられない。概念の青臭い殻が実生活の錯綜の中に多少は脱ぎ棄てられた(と思われた)後も、なお、かつての不安の気持だけが、それだけ切離されていつまでも残っている。南米の駱馬《ファナコ》は太古、地球の氷河時代に、危険に襲われた時も其処だけは安全な或る避難所をもっていた。地球が今の世代になって彼らを襲う危険の性質も異《ことな》って来、かつての避難所ももはや意味をもたなくなったにもかかわらず、現在新大陸にいる駱馬は、死や危険の予覚を得た際には、皆必ず昔の彼らの祖先の避難所のあった場所を指して逃れようとするという。三造の不安もあるいはこうした類の前代の残存物かも知れぬ。しかし、このどうにもならぬ漠然とした不安が、往々にして彼の生活の主調低音《グルンド・バス》になりかねない。人生のあらゆる事象の底にはこの目に見えぬ暗い流れが走り、それが生の行手を、前後左右を劃《かぎ》っていて、街の下を流れる下水の如くに、時々ほんのちょっとした隙から微《かす》かな虚《むな》しい響を聞かせるように三造には思われた。彼がまだ多少は健康で、肉体的な感覚に酔っていた時でも、今のような消極的な独り居の生活を営んでいる時でも、常に、この底流の小さな響がパスカル風な伴奏となって、何処からともなく聞えていたのである。これがほんの僅かでも聞えて来る限り、あらゆる幸福も名誉も制限付きの名誉・幸福でしかない。
全く、この響を意識しまいとして、どんなに彼は努力したことであろう。心にもない説教を何度彼は自分に向って言い聞かせたことだろう。
「俺たちは最上の食物でなければ喰べないだろうか? 最上の衣服でなければ身に著けないだろうか? 最上の遊星でなければ棲《す》むに堪えぬと思うほどに俺たちが贅沢でないならば、今俺たちに与えられているものの中からも結構いい所が発見出来るのではないか……」云々《うんぬん》。
「簡単なオプティミズムへの途を教えてやろう。天才と才無き者、健康者と虚弱者、富豪と貧民との差といえども、生れて来た者と生を与えられざりし者との差には、比ぶべくもないではないか、という考え方はどうだ。」云々。
「この世において立派な生活を完全に生き切れば、神は次の世界を約束すべき義務を有《も》つ、と言った素晴らしい男を見るがいい。」……云々。
「汝は幸福ならざるべからず[#「汝は幸福ならざるべからず」に傍点]と誰が決めたか? 一切は、幸福への意志の廃棄[#「幸福への意志の廃棄」に傍点]と共に、始まるのだ。」云々。
その他、ジイドの『地の糧』だの、チェスタアトンの楽天的エッセイなどが、何と弱々しい声々で彼を説得しようとしたことだろう。しかし、彼は、他人から教えられたり強いられたりしたのでない・自分自身の・心から納得の行く・「実在に対する評価」が有《も》ちたかったのだ。曲りくねった論理を辿って見て、はて、俺の存在は幸福なのだぞ、と、自分を説得して見ねばならぬ幸福などでは仕方がなかったのだ。
時としてごく稀に、歓ばしい昂揚された瞬間が無いでもなかった。生とは、黒洞々たる無限の時間と空間との間を劈《つんざ》いて奔《はし》る閃光と思われ、周囲の闇が暗ければ暗いだけ、また閃《ひらめ》く瞬間が短かければ短かいだけ、その光の美しさ・貴さは加わるのだ、と真実そのように信じられることも、時としてある。しかし、変転しやすい彼の気持は次の瞬間にはたちまち苦い幻滅の底に落ち込み、ふだん[#「ふだん」に傍点]より一層惨めなあじきなさ[#「あじきなさ」に傍点]の中に自《みずか》らを見出すのが常である。だから、しまいには、そうした精神の昂揚の最中《もなか》に在ってすら、後の幻滅の苦々しさを警戒して、現在の快い歓びをも抑え殺そうと力《つと》めるようにさえなったのだ。
ところで、今、河岸に沿うて歩きながら、珍しくも、三造の中にいる貧弱な常識家が、彼自身のこうした馬鹿馬鹿しい非常識を哂《わら》い、警《いまし》めている。「冗談じゃない。いい年をして、まだそんな下らない事を考えているのか。もっと重大な、もっと直接な問題が沢山あるじゃないか。何という非現実的な・取るに足らぬ・贅沢な愚かさに耽《ふけ》っているのだ。それは既に人々が夙《と》うの昔に卒業してしまった事柄――あるいは余り馬鹿げ切っているので、てんで初めから相手にしない事柄の一つではないか? 少しは恥ずかしく思うがいい。」「本当に人々はもはやこの問題を卒業しているのだろ
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