うか?」と彼の中にいる、もう一人が反問する。
「全然解決の見込のない問題を頭から相手にしないという一般の習慣はすこぶる都合の良いものだ。この習慣の恩恵に浴している人たちは仕合せである。全くの所、多くの人はこんな馬鹿げた不安や疑惑を感じはしない。それならばこうしたことを常に感ずるような人間は不具なのかも知れぬ。跛者が跛足を隠すように俺もまたこの精神的異常を隠すべきだろうか? ところで、一体、その正常とか異常とか真実とか虚偽とかいう奴は、何だ? 畢竟《ひっきょう》、統計上の問題に過ぎんじゃないか。いや、そんな事はどうでもいい。何より大事なことは、俺の性情にとって、幾ら他人《ひと》に嗤《わら》われようと、こうした一種の形而上学的といっていいような不安が他のあらゆる問題に先行するという事実だ。こればかりは、どうにも仕方がない。この点について釈然としない限り、俺にとって、あらゆる人間界の現象は制限付きの意味しか有《も》たないのだから。ところで、これについて古来提出された幾多の解答は、結局この解疑が不可能だということを余りにも明らかに証明している。して見れば、俺の魂の安静のための唯一の必要事は、『形而上学的迷蒙の形而上学的放棄』だということになる。それは俺も知り過ぎるほど知っている。それでも、どうにもならないのだ。俺がこうした莫迦《ばか》げた事柄への貪婪《どんらん》を以て(しかも哲学者的な冷徹な思索を欠いて)生れて来ているということこそ、唯一のかけがえ[#「かけがえ」に傍点]の無い所与なのだ。結局各人は各様にその素質を展開するより外に手はない。幼稚だといって嗤《わら》われることを気にしたり、自分に向って自己弁護をしたりすることの方がよほどおかしいのだ。女や酒に身を持ち崩す男があるように、形而上的|貪慾《どんよく》のために身を亡ぼす男もあろうではないか。女に迷って一生を棒にふる男と比べて数の上では比較にはなるまいが、認識論の入口で躓《つまず》いて動きが取れなくなってしまう男も、確かにあるのだ。前者は欣《よろこ》んで文学の素材とされるのに、何故後者は文学に取上げられないのか。異常だからだろうか。しかし、異常者カサノヴァはあれほどに読者を有《も》っているではないか。」
 しどろもどろの自己弁護の中に、ふと、彼はデュウラアの「メランコリヤ」という版画を――混乱の中に茫然と坐った天使の絶望を思い浮べた。既に四辺《あたり》は暗く、山手の教会堂の影も見分けが付かない。彼の歩いて行くすぐ傍を、和船が一艘、音も無く後から追抜いて行く。船尾の燈火が水に尾を曳《ひ》き、船は滑るように橋の下を左へ曲って行く。その動きに誘われるように、彼の考えの糸も、思わぬ脇道に外《そ》れ始める。
「畢竟、俺は俺の愚かさに殉ずる外に途は無いじゃないか。凡てが言われ、考えられた後に結局、人は己が性情の指さす所に従うのだ。その論議・思考と無関係に、である。そして爾後《じご》の努力は、凡て、その性情の為《な》した選択へのジャスティフィケイションにのみ注がれるであろう。考えようによれば、古往今来のあらゆる思想とは、各思想家がそれぞれ自己の性情に向って為したジャスティフィケイションに外ならぬではないか。……」
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(註1) このひねこびた憐れな少年は、その後二つの異った希求に烈しく悩まされた。「あらゆる事柄[#「あらゆる事柄」に傍点](あるいは第一原理)を知り尽くしたい」という慾望と、「出来る限り多くの事物が(あるいはその事物の原因が)自分の理解を絶した彼方にあればいい」という前のとはまるで[#「まるで」に傍点]反対の奇体な願望とであった。前者は誰にでもある・成人《おとな》の言葉でいえば「自己を神にしたい」慾望だったが、後者は「この世界を絶対信頼に値する・確乎たるものと信じたい」という・その逆の――つまり、この世界の不確かさ・哀れさに対する恐怖から生れた強い希求だった。「自分のようなチッポケな存在から凡てが理解されてしまうような世界では、その中に棲《す》むことが何としても不安だ。自分などにはその一端すら理解できないような・大きな・確乎たる存在に身を任せたい」という・小さい者の恐怖から生れた・棄鉢《すてばち》的な強い願望だった。こうした願いにもかかわらず、彼は成長するにつれ、第一の望の実現はもとより、それより更に強い第二のそれの実現もまた望のないものであることをはっきり[#「はっきり」に傍点]と――余りにも恐ろしくはっきり[#「はっきり」に傍点]と知らされて来た。世界も、人間の営みも、この少年の望むほど、しかく確乎たるものではない。それは小学校の先生に聞かされた世界滅亡説を熱力学の第二法則という言葉に置換えて見ても同じことだし、そうした単純な科学による
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