るくると絶間なく動いている。その下では中年の瘤男がせっせと[#「せっせと」に傍点]口を動かし、それにつれて頸の肉塊も少しずつ動くような気がする。
三造は、すっかり食慾をなくして、半分ほど残したまま、立上った。
掘割|沿《ぞ》いの道をアパアトへ向って彼は帰って行く。家々にも街頭にも灯ははいり始めたが、まだ暮れ切らない空の向うを、教会の尖塔や風変りな破風《はふ》屋根をもった山手の高台のシルウェットが劃《かぎ》っている。上げ汐と見え、河岸に泊っている汚らしい船々の腹に塵芥がひたひたと寄せている。水の上には明暗の交ったうそ[#「うそ」に傍点]寒い光が漂っているようだ。仄かな陰翳《かげ》が其処《そこ》から立昇り、立昇っては声もなく消えて行くのである。
気配は感じられても姿を現さない尾行者に蹤《つ》けられているような気持で、彼は独り河岸っぷちを歩いて行く。
小学校の四年の時だったろうか。肺病やみ[#「やみ」に傍点]のように痩《や》せた・髪の長い・受持の教師が、或日何かの拍子で、地球の運命というものについて話したことがあった。如何《いか》にして地球が冷却し、人類が絶滅するか、我々の存在が如何に無意味であるかを、その教師は、意地の悪い執拗さを以て繰返し繰返し、幼い三造たちに説いたのだ。後《のち》に考えて見ても、それは明らかに、幼い心に恐怖を与えようとする嗜虐症《しぎゃくしょう》的な目的で、その毒液を、その後に何らの抵抗素も緩和剤をも補給することなしに、注射したものであった。三造は怖かった。恐らく蒼《あお》くなって聞いていたに違いない。地球が冷却するのや、人類が滅びるのは、まだしも我慢が出来た。ところが、そのあとでは太陽までも消えてしまうという。太陽も冷えて、消えて、真暗な空間をただぐるぐると誰にも見られずに黒い冷たい星どもが廻っているだけになってしまう。それを考えると彼は堪らなかった。それでは自分たちは何のために生きているんだ。自分は死んでも地球や宇宙はこのままに続くものとしてこそ安心して、人間の一人として死んで行ける。それが、今、先生の言うようでは、自分たちの生れて来たことも、人間というものも、宇宙というものも、何の意味もないではないか。本当に、何のために自分は生れて来たんだ? それからしばらく、彼は――十一歳の三造は、神経衰弱のようになってしまった。父にも、親戚の年上の学生にも、彼はこの事について真剣になって訊ねて見た。すると彼らはみんな笑いながら、しかし、理論的には、大体それを承認するではないか。どうして、それで怖くないんだろう? どうして笑ってなんかいられるんだろう? 五千年や一万年の中《うち》にそんな事は起りゃしないよ、などと言ってどうして安心していられるんだろう? 三造は不思議だった。彼にとって、これは自分一人の生死の問題ではなかった。人間や宇宙に対する信頼の問題だった。だから、何万年後のことだからとて、笑ってはいられなかったのだ。その頃彼は一匹の犬を可愛がっていた。地球が冷えてしまう時に、仮に自分が遭遇するものとすれば、最後に氷の張り詰めた大地に坑《あな》を掘って、その犬と一緒に其処にはいって抱合って死ぬことにするんだが、と、その有様を寝床へ入ってから、よく想像して見たりした。すると、不思議に恐怖が消えて、犬のいとしさ[#「いとしさ」に傍点]とその体温とが、ほのぼの[#「ほのぼの」に傍点]と思い浮べられるのであった。しかし大抵は、夜、床に就いてからじっ[#「じっ」に傍点]と眼を閉じて、人類が無くなったあとの・無意義な・真黒な・無限の時の流を想像して、恐ろしさに堪えられず、アッと大きな声を出して跳上ったりすることが多かった。そのために幾度も父に叱られたものである。夜、電車|通《どおり》を歩いていて、ひょいとこの恐怖が起って来る。すると、今まで聞えていた電車の響も聞えなくなり、すれちがう人波も目に入らなくなって、じいんと[#「じいんと」に傍点]静まり返った世界の真中に、たった一人でいるような気がして来る。その時、彼の踏んでいる大地は、いつもの平らな地面ではなく、人々の死に絶えてしまった・冷え切った円い遊星の表面なのだ。病弱な・ひねこびた・神経衰弱の・十一歳の少年は、「みんな亡びる、みんな冷える、みんな無意味だ」と考えながら、真実、恐ろしさに冷汗の出る思いで、しばらく其処に立停《たちどま》ってしまう。その中に、ひょいと気がつくと、自分の周囲にはやはり人々が往来し、電燈があかあかとつき、電車が動き、自動車が走っている。ああ、よかった、と彼はホッとするのであった。これがいつものことだった。(註1)(註2)
子供の時に中毒《あた》ったことのある食物が一生嫌いになってしまうように、このような・人類や我々の遊星への単純な不信が、も
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