ル師を気取るにも当るまいではないか。世俗を超越した孤高の、精神的享受生活の、なんどと自惚《うぬぼ》れているんだったら、とんだお笑い草だ。行動能力が無いために、世の中から取残されているだけのことじゃないか。世俗的な活動力が無いということは、それに、決して世俗的な慾望までが無いということではないんだからな。卑俗な慾望で一杯のくせに、それを獲得するだけの実行力が無いからとて、いやに上品がるなんざあ、悪い趣味だ。追いつめられた孤立なんぞは少しも悲壮でなんかありはしない。それから、もう一つ。世俗的な才能が無いということは、決して、精神的な仕事の上に才能があるということにはならないんだからな。決して。大体が、享受的生活などというものが、そもそも生活無能力者の・最後の・体裁の良い隠れ家なんだぜ。何だと? 「人生は、何もしないでいるには長過ぎるが、何かするには短か過ぎる」? 何を生意気を言ってるんだ。長過ぎるか、短か過ぎるか、とにかく、それは何かやって見てから言うことだよ。何も判りもしないくせに、何の努力もしないでおいて、イヤに悟ったようなことをいうのは、全く良くない癖だ。それが本当の生意気というものだ。お前が子供の時から抱いて来たという・「存在への疑惑」という奴も、随分おかしなものだが、よし、それに答えてやろう。いいか。人間という奴は、時間とか、空間とか、数とか、そういった観念の中でしか何事も考えられないように作られているんだ。だから、そういう形式を超えた事柄については何も解らないように出来ているんだ。神とか、超自然とか、そうしたものの存在が、(また、非存在が)理論的に証明できないのはそのためなんだ。お前の場合だって、おんなじさ。お前の精神がそういう疑惑を抱くように出来ているから、そういう疑惑を抱くんで、また、その解決が得られないように、お前の(つまり、人間の)精神が出来ているから、お前にはその解決が得られないんだ。それだけのことさ。馬鹿馬鹿しい。
 一体、「世界とは」とか「人生とは」とか、そんなおおざっぱ[#「おおざっぱ」に傍点]なもの[#「もの」に傍点]の言い方は止《よ》した方がいいね。第一、羞《はずか》しいとは思わないのかなあ。多少でも趣味の上のデリカシイを有《も》っている男なら、恥ずかしくて、そんなもの[#「もの」に傍点]の言い方は出来るものじゃない。それに世界は、(早速
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