ならば、今この男が吐いた感想位の思想は、常に彼の言葉の随所に見出せるのではなかろうか。ただ我々の方にそれを見出すだけの能力《ちから》と根気とが無いだけのことではないのだろうか。更に、その鈍重・難解な言葉をよくよく噛分けている中には、我々にも、この男の愚昧《ぐまい》さの必然性が――「何故に彼が常にかくも、他人の目からは愚かと見えるような行動に出ねばならないのか、」の心理的必然性がはっきり[#「はっきり」に傍点]のみ込めて来るのではないだろうか。そうなって来れば、やがて、M氏がM氏でなければならぬ必然さと、我々が我々であらねばならぬ必然さとの間に――あるいは、ゲーテがゲーテであらねばならなかった必然さとの間に――価値の上下をつけることが、(少くとも主観的には)不可能と感じられてくるだろう。現に、M氏は先刻の感想の中で、明らかに、自分を上の階段まで達しているものとし、彼を嘲弄する我々を、「下の階段にいながら上段にいる者を哂《わら》おうとする身の程知らず」としているに違いない。我々の価値判断の標準を絶対だと考えるのは、我々の自惚《うぬぼれ》に過ぎないのではないか。(このM氏の例を、類推の線に沿うて少し移動させて考えれば)同様に、我々がもし犬だの猫だの、そうした獣の・言葉やその他の表現法を理解する能力を有つならば、我々にも、彼ら動物どもの生活形態の必然さを、身を以て[#「身を以て」に傍点]、理解することが出来、また、彼らが我々よりも遥かに優れた叡智や思想を有っていることを見出さないとは限らないであろう。我々は、我々が人間だから、という簡単な理由で、人間の智慧を最高のものと自惚れているだけのことではないのか。……
 酔の廻《まわ》った頭に、ものを考えるのが億劫《おっくう》になって来ると、結局落着く先は、いつもの「イグノラムス・イグノラビムス」である。三造は何かに追掛けられたように、あわてて、ぐいぐいと三、四杯立てつづけにあおった。すいっちょ[#「すいっちょ」に傍点]は夙《と》うに何処かへいなくなっている。M氏も大分酔ったらしく、眼を閉じて、しかし、まだ口の中で何かもごもごいいながら、後《うしろ》の柱に倚《よ》りかかっている。

       五

 ふん、まだ三十になりもしないのに、その取澄ました落著《おちつ》き方はどうだ。今から何もムッシュウ・ベルジュレやジェロオム・コワニァ
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