将軍をかばわんがために、李敢は鹿《しか》の角に触れて死んだと発表させたのだ。……。
司馬遷《しばせん》の場合と違って、李陵のほうは簡単であった。憤怒《ふんぬ》がすべてであった。(無理でも、もう少し早くかねての計画――単于《ぜんう》の首でも持って胡地《こち》を脱するという――を実行すればよかったという悔いを除いては、)ただそれをいかにして現わすかが問題であるにすぎない。彼は先刻の男の言葉「胡地《こち》にあって李将軍が兵を教え漢に備えていると聞いて陛下が激怒され云々《うんぬん》」を思出した。ようやく思い当たったのである。もちろん彼自身にはそんな覚えはないが、同じ漢の降将に李緒《りしょ》という者がある。元、塞外都尉《さいがいとい》として奚侯城《けいこうじょう》を守っていた男だが、これが匈奴《きょうど》に降《くだ》ってから常に胡軍《こぐん》に軍略を授け兵を練っている。現に半年前の軍にも、単于に従って、(問題の公孫敖《こうそんごう》の軍とではないが)漢軍と戦っている。これだと李陵《りりょう》は思った。同じ李《り》将軍で、李緒《りしょ》とまちがえられたに違いないのである。
その晩、彼は単身、李緒の帳幕《ちょうばく》へと赴《おもむ》いた。一言も言わぬ、一言も言わせぬ。ただの一刺しで李緒は斃《たお》れた。
翌朝李陵は単于の前に出て事情を打明けた。心配は要《い》らぬと単于は言う。だが母の大閼《たいえん》氏が少々うるさいから――というのは、相当の老齢でありながら、単于の母は李緒と醜関係があったらしい。単于はそれを承知していたのである。匈奴《きょうど》の風習によれば、父が死ぬと、長子たる者が、亡父の妻妾《さいしょう》のすべてをそのまま引きついで己《おの》が妻妾とするのだが、さすがに生母だけはこの中にはいらない。生みの母に対する尊敬だけは極端に男尊女卑の彼らでも有《も》っているのである――今しばらく北方へ隠れていてもらいたい、ほとぼり[#「ほとぼり」に傍点]がさめたころに迎えを遣《や》るから、とつけ加えた。その言葉に従って、李陵は一時従者どもをつれ、西北の兜銜山《とうかんざん》(額林達班嶺《がくりんたっぱんれい》)の麓《ふもと》に身を避けた。
まもなく問題の大閼《たいえん》氏が病死し、単于《ぜんう》の庭《てい》に呼戻されたとき、李陵《りりょう》は人間が変わったように見えた。というのは、今まで漢に対する軍略にだけは絶対に与《あずか》らなかった彼が、自《みずか》ら進んでその相談に乗ろうと言出したからである。単于はこの変化を見て大いに喜んだ。彼は陵を右校王《うこうおう》に任じ、己《おの》が娘の一人をめあわせた。娘を妻にという話は以前にもあったのだが、今まで断わりつづけてきた。それを今度は躊躇《ちゅうちょ》なく妻としたのである。ちょうど酒泉《しゅせん》張掖《ちょうえき》の辺を寇掠《こうりゃく》すべく南に出て行く一軍があり、陵は自ら請うてその軍に従った。しかし、西南へと取った進路がたまたま浚稽山《しゅんけいざん》の麓《ふもと》を過《よぎ》ったとき、さすがに陵の心は曇った。かつてこの地で己《おのれ》に従って死戦した部下どものことを考え、彼らの骨が埋められ彼らの血の染《し》み込んだその砂の上を歩きながら、今の己が身の上を思うと、彼はもはや南行して漢兵と闘う勇気を失った。病と称して彼は独り北方へ馬を返した。
翌、太始《たいし》元年、且※[#「革+是」、第3水準1−93−79]侯《そていこう》単于《ぜんう》が死んで、陵と親しかった左賢王《さけんおう》が後を嗣《つ》いだ。狐鹿姑《ころくこ》単于というのがこれである。
匈奴《きょうど》の右校王《うこうおう》たる李陵《りりょう》の心はいまだにハッキリしない。母妻子を族滅《ぞくめつ》された怨《うら》みは骨髄《こつずい》に徹しているものの、自《みずか》ら兵を率いて漢と戦うことができないのは、先ごろの経験で明らかである。ふたたび漢の地を踏むまいとは誓ったが、この匈奴の俗に化して終生安んじていられるかどうかは、新単于への友情をもってしても、まださすがに自信がない。考えることの嫌《きら》いな彼は、イライラしてくると、いつも独り駿馬《しゅんめ》を駆って曠野《こうや》に飛び出す。秋天一碧《しゅうてんいっぺき》の下、※[#「口+戛」、第3水準1−15−17]々《かつかつ》と蹄《ひづめ》の音を響かせて草原となく丘陵となく狂気のように馬を駆けさせる。何十里かぶっとばした後、馬も人もようやく疲れてくると、高原の中の小川を求めてその滸《ほとり》に下り、馬に飲《みず》かう。それから己《おのれ》は草の上に仰向《あおむ》けにねころんで快い疲労感にウットリと見上げる碧落《へきらく》の潔《きよ》さ、高さ、広さ。ああ我もと天地間の一粒子《いちりゅうし》のみ、なんぞまた漢と胡《こ》とあらんやとふとそんな気のすることもある。一しきり休むとまた馬に跨《また》がり、がむしゃらに駈《か》け出す。終日乗り疲れ黄雲《こううん》が落暉《らっき》に※[#「日+熏」、第3水準1−85−42]《くん》ずるころになってようやく彼は幕営《ばくえい》に戻る。疲労だけが彼のただ一つの救いなのである。
司馬遷《しばせん》が陵《りょう》のために弁じて罪をえたことを伝える者があった。李陵は別にありがたいとも気の毒だとも思わなかった。司馬遷とは互いに顔は知っているし挨拶《あいさつ》をしたことはあっても、特に交を結んだというほどの間柄ではなかった。むしろ、厭《いや》に議論ばかりしてうるさいやつだくらいにしか感じていなかったのである。それに現在の李陵は、他人の不幸を実感するには、あまりに自分一個の苦しみと闘《たたか》うのに懸命であった。よけいな世話とまでは感じなかったにしても、特に済まないと感じることがなかったのは事実である。
初め一概に野卑《やひ》滑稽《こっけい》としか映《うつ》らなかった胡地《こち》の風俗が、しかし、その地の実際の風土・気候等を背景として考えてみるとけっして野卑でも不合理でもないことが、しだいに李陵にのみこめてきた。厚い皮革製の胡服《こふく》でなければ朔北《さくほく》の冬は凌《しの》げないし、肉食でなければ胡地の寒冷に堪《た》えるだけの精力を貯《たくわ》えることができない。固定した家屋を築かないのも彼らの生活形態から来た必然で、頭から低級と貶《けな》し去るのは当たらない。漢人のふうをあくまで保《たも》とうとするなら、胡地の自然の中での生活は一日といえども続けられないのである。
かつて先代の且※[#「革+是」、第3水準1−93−79]侯《そていこう》単于《ぜんう》の言った言葉を李陵《りりょう》は憶《おぼ》えている。漢の人間が二言めには、己《おの》が国を礼儀の国といい、匈奴《きょうど》の行ないをもって禽獣《きんじゅう》に近いと看做《みな》すことを難じて、単于は言った。漢人のいう礼儀とは何ぞ? 醜いことを表面だけ美しく飾り立てる虚飾の謂《いい》ではないか。利を好み人を嫉《ねた》むこと、漢人と胡人《こじん》といずれかはなはだしき? 色に耽《ふけ》り財を貪《むさぼ》ること、またいずれかはなはだしき? 表《うわ》べを剥《は》ぎ去れば畢竟《ひっきょう》なんらの違いはないはず。ただ漢人はこれをごまかし飾ることを知り、我々はそれを知らぬだけだ、と。漢初以来の骨肉《こつにく》相《あい》喰《は》む内乱や功臣連の排斥《はいせき》擠陥《せいかん》の跡を例に引いてこう言われたとき、李陵はほとんど返す言葉に窮した。実際、武人《ぶじん》たる彼は今までにも、煩瑣《はんさ》な礼のための礼に対して疑問を感じたことが一再ならずあったからである。たしかに、胡俗《こぞく》の粗野《そや》な正直さのほうが、美名の影に隠れた漢人の陰険さより遙《はる》かに好ましい場合がしばしばあると思った。諸夏《しょか》の俗を正しきもの、胡俗《こぞく》を卑しきものと頭から決めてかかるのは、あまりにも漢人的な偏見ではないかと、しだいに李陵にはそんな気がしてくる。たとえば今まで人間には名のほかに字《あざな》がなければならぬものと、ゆえもなく信じ切っていたが、考えてみれば字が絶対に必要だという理由はどこにもないのであった。
彼の妻はすこぶる大人《おとな》しい女だった。いまだに主人の前に出るとおずおずしてろく[#「ろく」に傍点]に口も利《き》けない。しかし、彼らの間にできた男の児は、少しも父親を恐れないで、ヨチヨチと李陵の膝《ひざ》に匍上《はいあ》がって来る。その児の顔に見入りながら、数年前|長安《ちょうあん》に残してきた――そして結局母や祖母とともに殺されてしまった――子供の俤《おもかげ》をふと思いうかべて李陵は我しらず憮然《ぶぜん》とするのであった。
陵が匈奴《きょうど》に降《くだ》るよりも早く、ちょうどその一年前から、漢の中郎将《ちゅうろうしょう》蘇武《そぶ》が胡地《こち》に引留められていた。
元来蘇武は平和の使節として捕虜《ほりょ》交換のために遣《つか》わされたのである。ところが、その副使某がたまたま匈奴の内紛《ないふん》に関係したために、使節団全員が囚《とら》えられることになってしまった。単于《ぜんう》は彼らを殺そうとはしないで、死をもって脅《おびや》かしてこれを降《くだ》らしめた。ただ蘇武一人は降服を肯《がえ》んじないばかりか、辱《はずか》しめを避けようと自《みずか》ら剣を取って己《おの》が胸を貫いた。昏倒《こんとう》した蘇武に対する胡※[#「醫」の「酉」に代えて「巫」、第4水準2−78−8]《こい》の手当てというのがすこぶる変わっていた。地を掘って坎《あな》をつくり※[#「火+慍のつくり」、第3水準1−87−59]火《うんか》を入れて、その上に傷者を寝かせその背中を蹈《ふ》んで血を出させたと漢書《かんじょ》には誌《しる》されている。この荒療治のおかげで、不幸にも蘇武は半日|昏絶《こんぜつ》したのちにまた息を吹返した。且※[#「革+是」、第3水準1−93−79]侯《そていこう》単于はすっかり彼に惚《ほ》れ込んだ。数旬ののちようやく蘇武の身体が恢復《かいふく》すると、例の近臣|衛律《えいりつ》をやってまた熱心に降をすすめさせた。衛律は蘇武が鉄火の罵詈《ばり》に遭《あ》い、すっかり恥をかいて手を引いた。その後蘇武が窖《あなぐら》の中に幽閉《ゆうへい》されたとき旃毛《せんもう》を雪に和して喰《くら》いもって飢えを凌《しの》いだ話や、ついに北海《ほっかい》(バイカル湖)のほとり人なき所に徙《うつ》されて牡羊《おひつじ》が乳を出さば帰るを許さんと言われた話は、持節《じせつ》十九年の彼の名とともに、あまりにも有名だから、ここには述べない。とにかく、李陵《りりょう》が悶々《もんもん》の余生を胡地《こち》に埋めようとようやく決心せざるを得なくなったころ、蘇武は、すでに久しく北海のほとりで独り羊を牧していたのである。
李陵《りりょう》にとって蘇武《そぶ》は二十年来の友であった。かつて時を同じゅうして侍中《じちゅう》を勤めていたこともある。片意地でさばけないところはあるにせよ、確かにまれに見る硬骨の士であることは疑いないと陵は思っていた。天漢元年に蘇武が北へ立ってからまもなく、武の老母が病死したときも、陵は陽陵《ようりょう》までその葬を送った。蘇武の妻が良人《おっと》のふたたび帰る見込みなしと知って、去って他家に嫁《か》した噂《うわさ》を聞いたのは、陵の北征出発直前のことであった。そのとき、陵は友のためにその妻の浮薄をいたく憤った。
しかし、はからずも自分が匈奴《きょうど》に降《くだ》るようになってからのちは、もはや蘇武に会いたいとは思わなかった。武が遙《はる》か北方に遷《うつ》されていて顔を合わせずに済むことをむしろ助かったと感じていた。ことに、己《おのれ》の家族が戮《りく》せられてふたたび漢に戻る気持を失ってからは、いっそうこの「漢節を持した牧羊者」との面接を避けたかった。
狐鹿姑《ころくこ》単于《ぜんう》
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