従っておいてそのうちに機を見て脱走する――敗軍の責を償《つぐな》うに足る手柄を土産《みやげ》として――か、この二つのほかに途《みち》はないのだが、李陵は、後者を選ぶことに心を決めたのである。
 単于《ぜんう》は手ずから李陵の縄《なわ》を解いた。その後の待遇も鄭重《ていちょう》を極めた。且※[#「革+是」、第3水準1−93−79]侯《そていこう》単于とて先代の※[#「口+句」、第3水準1−14−90]犁湖《くりこ》単于の弟だが、骨骼《こっかく》の逞《たくま》しい巨眼《きょがん》赭髯《しゃぜん》の中年の偉丈夫《いじょうふ》である。数代の単于に従って漢《かん》と戦ってはきたが、まだ李陵ほどの手強《てごわ》い敵に遭《あ》ったことはないと正直に語り、陵の祖父|李広《りこう》の名を引合いに出して陵の善戦を讃《ほ》めた。虎《とら》を格殺《かくさつ》したり岩に矢を立てたりした飛将軍《ひしょうぐん》李広の驍名《ぎょうめい》は今もなお胡地《こち》にまで語り伝えられている。陵が厚遇を受けるのは、彼が強き者の子孫でありまた彼自身も強かったからである。食を頒《わ》けるときも強壮者が美味をとり老弱者に余り物を与えるのが匈奴《きょうど》のふうであった。ここでは、強き者が辱《はずか》しめられることはけっしてない。降将李陵は一つの穹盧《きゅうろ》と数十人の侍者《じしゃ》とを与えられ賓客《ひんきゃく》の礼をもって遇《ぐう》せられた。
 李陵にとって奇異な生活が始まった。家は絨帳《じゅうちょう》穹盧《きゅうろ》、食物は羶肉《せんにく》、飲物は酪漿《らくしょう》と獣乳と乳醋酒《にゅうさくしゅ》。着物は狼《おおかみ》や羊や熊《くま》の皮を綴《つづ》り合わせた旃裘《せんきゅう》。牧畜と狩猟と寇掠《こうりゃく》と、このほかに彼らの生活はない。一望際涯《いちぼうさいがい》のない高原にも、しかし、河や湖や山々による境界があって、単于《ぜんう》直轄地《ちょっかつち》のほかは左賢王《さけんおう》右賢王|左谷蠡王《さろくりおう》右谷蠡王以下の諸王侯の領地に分けられており、牧民の移住はおのおのその境界の中に限られているのである。城郭もなければ田畑もない国。村落はあっても、それが季節に従い水草を逐《お》って土地を変える。
 李陵には土地は与えられない。単于|麾下《きか》の諸将とともにいつも単于に従っていた。隙《すき》があったら単于の首でも、と李陵は狙《ねら》っていたが、容易に機会が来ない。たとい、単于を討果たしたとしても、その首を持って脱出することは、非常な機会に恵まれないかぎり、まず不可能であった。胡地《こち》にあって単于と刺違えたのでは、匈奴《きょうど》は己《おのれ》の不名誉を有耶無耶《うやむや》のうちに葬ってしまうこと必定《ひつじょう》ゆえ、おそらく漢に聞こえることはあるまい。李陵は辛抱強《しんぼうづよ》く、その不可能とも思われる機会の到来を待った。
 単于《ぜんう》の幕下《ばっか》には、李陵《りりょう》のほかにも漢の降人《こうじん》が幾人かいた。その中の一人、衛律《えいりつ》という男は軍人ではなかったが、丁霊王《ていれいおう》の位を貰《もら》って最も重く単于に用いられている。その父は胡人《こじん》だが、故《ゆえ》あって衛律は漢の都で生まれ成長した。武帝に仕えていたのだが、先年|協律都尉《きょうりつとい》李延年《りえんねん》の事に坐《ざ》するのを懼《おそ》れて、亡《に》げて匈奴《きょうど》に帰《き》したのである。血が血だけに胡風《こふう》になじむことも速く、相当の才物でもあり、常に且※[#「革+是」、第3水準1−93−79]侯《そていこう》単于《ぜんう》の帷幄《いあく》に参じてすべての画策に与《あず》かっていた。李陵はこの衛律を始め、漢人《かんじん》の降《くだ》って匈奴の中にあるものと、ほとんど口をきかなかった。彼の頭の中にある計画について事をともにすべき人物がいないと思われたのである。そういえば、他の漢人同士の間でもまた、互いに妙に気まずいものを感じるらしく、相互に親しく交わることがないようであった。
 一度単于は李陵を呼んで軍略上の示教を乞《こ》うたことがある。それは東胡《とうこ》に対しての戦いだったので、陵は快く己《おの》が意見を述べた。次に単于が同じような相談を持ちかけたとき、それは漢軍に対する策戦についてであった。李陵はハッキリと嫌《いや》な表情をしたまま口を開こうとしなかった。単于も強《し》いて返答を求めようとしなかった。それからだいぶ久しくたったころ、代・上郡を寇掠《こうりゃく》する軍隊の一将として南行することを求められた。このときは、漢に対する戦いには出られない旨を言ってキッパリ断わった。爾後《じご》、単于は陵にふたたびこうした要求をしなくなった。待遇は依然として変わらない。他に利用する目的はなく、ただ士を遇するために士を遇しているのだとしか思われない。とにかくこの単于は男[#「男」に傍点]だと李陵は感じた。
 単于の長子・左賢王《さけんおう》が妙に李陵に好意を示しはじめた。好意というより尊敬といったほうが近い。二十歳を越したばかりの・粗野《そや》ではあるが勇気のある真面目《まじめ》な青年である。強き者への讃美《さんび》が、実に純粋で強烈なのだ。初め李陵のところへ来て騎射《きしゃ》を教えてくれという。騎射といっても騎のほうは陵に劣らぬほど巧《うま》い。ことに、裸馬《らば》を駆る技術に至っては遙《はる》かに陵を凌《しの》いでいるので、李陵はただ射《しゃ》だけを教えることにした。左賢王《さけんおう》は、熱心な弟子となった。陵の祖父|李広《りこう》の射における入神《にゅうしん》の技などを語るとき、蕃族《ばんぞく》の青年は眸《ひとみ》をかがやかせて熱心に聞入るのである。よく二人して狩猟に出かけた。ほんの僅《わず》かの供廻《ともまわ》りを連れただけで二人は縦横に曠野《こうや》を疾駆《しっく》しては狐《きつね》や狼《おおかみ》や羚羊《かもしか》や※[#「周+鳥」、第3水準1−94−62]《おおとり》や雉子《きじ》などを射た。あるときなど夕暮れ近くなって矢も尽きかけた二人が――二人の馬は供の者を遙《はる》かに駈抜《かけぬ》いていたので――一群の狼に囲まれたことがある。馬に鞭《むち》うち全速力で狼群の中を駈け抜けて逃れたが、そのとき、李陵の馬の尻《しり》に飛びかかった一匹を、後ろに駈けていた青年左賢王が彎刀《わんとう》をもって見事《みごと》に胴斬《どうぎ》りにした。あとで調べると二人の馬は狼どもに噛《か》み裂かれて血だらけになっていた。そういう一日ののち、夜、天幕《てんまく》の中で今日の獲物を羹《あつもの》の中にぶちこんでフウフウ吹きながら啜《すす》るとき、李陵は火影《ほかげ》に顔を火照《ほて》らせた若い蕃王《ばんおう》の息子に、ふと友情のようなものをさえ感じることがあった。

 天漢三年の秋に匈奴《きょうど》がまたもや雁門《がんもん》を犯した。これに酬《むく》いるとて、翌四年、漢は弐師《じし》将軍|李広利《りこうり》に騎六万歩七万の大軍を授《さず》けて朔方《さくほう》を出でしめ、歩卒一万を率いた強弩都尉《きょうどとい》路博徳《ろはくとく》にこれを援《たす》けしめた。ひいて因※[#「木+于」、39−13]《いんう》将軍|公孫敖《こうそんごう》は騎一万歩三万をもって雁門を、游撃《ゆうげき》将軍|韓説《かんせつ》は歩三万をもって五原《ごげん》を、それぞれ進発する。近来にない大|北伐《ほくばつ》である。単于《ぜんう》はこの報に接するや、ただちに婦女、老幼、畜群、資財の類をことごとく余吾水《しょごすい》(ケルレン河)北方の地に移し、自《みずか》ら十万の精騎を率いて李広利《りこうり》・路博徳《ろはくとく》の軍を水南《すいなん》の大草原に邀《むか》え撃った。連戦十余日。漢軍はついに退くのやむなきに至った。李陵《りりょう》に師事する若き左賢王《さけんおう》は、別に一隊を率いて東方に向かい因※[#「木+于」、39−18]《いんう》将軍を迎えてさんざんにこれを破った。漢軍の左翼たる韓説《かんせつ》の軍もまた得るところなくして兵を引いた。北征は完全な失敗である。李陵は例によって漢との戦いには陣頭に現われず、水北に退いていたが、左賢王の戦績をひそかに気遣《きづか》っている己《おのれ》を発見して愕然《がくぜん》とした。もちろん、全体としては漢軍の成功と匈奴《きょうど》の敗戦とを望んでいたには違いないが、どうやら左賢王だけは何か負けさせたくないと感じていたらしい。李陵はこれに気がついて激しく己を責めた。
 その左賢王に打破られた公孫敖《こうそんごう》が都に帰り、士卒を多く失って功がなかったとの廉《かど》で牢《ろう》に繋《つな》がれたとき、妙な弁解をした。敵の捕虜《ほりょ》が、匈奴軍の強いのは、漢から降《くだ》った李《り》将軍が常々兵を練り軍略を授けてもって漢軍に備えさせているからだと言ったというのである。だからといって自軍が敗《ま》けたことの弁解にはならないから、もちろん、因※[#「木+于」、40−8]《いんう》将軍の罪は許されなかったが、これを聞いた武帝が、李陵に対し激怒したことは言うまでもない。一度許されて家に戻っていた陵の一族はふたたび獄《ごく》に収められ、今度は、陵の老母から妻・子・弟に至るまでことごとく殺された。軽薄なる世人の常とて、当時|隴西《ろうせい》(李陵の家は隴西の出である)の士大夫《したいふ》ら皆李家を出したことを恥としたと記されている。
 この知らせが李陵の耳に入ったのは半年ほど後のこと、辺境から拉致《らち》された一|漢卒《かんそつ》の口からである。それを聞いたとき、李陵は立上がってその男の胸倉《むなぐら》をつかみ、荒々しくゆすぶりながら、事の真偽を今一度たしかめた。たしかにまちがいのないことを知ると、彼は歯をくい縛《しば》り、思わず力を両手にこめた。男は身をもがいて、苦悶《くもん》の呻《うめ》きを洩《も》らした。陵《りょう》の手が無意識のうちにその男の咽喉《いんこう》を扼《やく》していたのである。陵が手を離すと、男はバッタリ地に倒れた。その姿に目もやらず、陵は帳房《ちょうぼう》の外へ飛出した。
 めちゃくちゃに彼は野を歩いた。激しい憤りが頭の中で渦《うず》を巻いた。老母や幼児のことを考えると心は灼《や》けるようであったが、涙は一滴も出ない。あまりに強い怒りは涙を涸渇《こかつ》させてしまうのであろう。
 今度の場合には限らぬ。今まで我が一家はそもそも漢から、どのような扱いを受けてきたか? 彼は祖父の李広《りこう》の最期《さいご》を思った。(陵の父、当戸《とうこ》は、彼が生まれる数か月前に死んだ。陵はいわゆる、遺腹の児である。だから、少年時代までの彼を教育し鍛えあげたのは、有名なこの祖父であった。)名将李広は数次の北征に大功を樹《た》てながら、君側の姦佞《かんねい》に妨げられて何一つ恩賞にあずからなかった。部下の諸将がつぎつぎに爵位《しゃくい》封侯《ほうこう》を得て行くのに、廉潔《れんけつ》な将軍だけは封侯はおろか、終始変わらぬ清貧《せいひん》に甘んじなければならなかった。最後に彼は大将軍|衛青《えいせい》と衝突した。さすがに衛青にはこの老将をいたわる気持はあったのだが、その幕下《ばっか》の一|軍吏《ぐんり》が虎《とら》の威《い》を借りて李広を辱《はずか》しめた。憤激した老名将はすぐその場で――陣営の中で自《みずか》ら首|刎《は》ねたのである。祖父の死を聞いて声をあげてないた少年の日の自分を、陵はいまだにハッキリと憶《おぼ》えている。……
 陵の叔父(李広の次男)李敢《りかん》の最後はどうか。彼は父将軍の惨《みじ》めな死について衛青を怨《うら》み、自ら大将軍の邸に赴《おもむ》いてこれを辱《はずか》しめた。大将軍の甥《おい》にあたる嫖騎《ひょうき》将軍|霍去病《かくきょへい》がそれを憤って、甘泉宮《かんせんきゅう》の猟のときに李敢を射殺した。武帝はそれを知りながら、嫖騎
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