が父の後《あと》を嗣《つ》いでから数年後、一時蘇武が生死不明との噂《うわさ》が伝わった。父単于がついに降服させることのできなかったこの不屈の漢使の存在を思出した狐鹿姑単于は、蘇武の安否を確かめるとともに、もし健在ならば今一度降服を勧告するよう、李陵に頼んだ。陵が武の友人であることを聞いていたのである。やむを得ず陵は北へ向かった。
 姑且水《こじょすい》を北に溯《さかのぼ》り※[#「到」の「りっとう」に代えて「おおざと」、第3水準1−92−67]居水《しっきょすい》との合流点からさらに西北に森林地帯を突切る。まだ所々に雪の残っている川岸を進むこと数日、ようやく北海《ほっかい》の碧《あお》い水が森と野との向こうに見え出したころ、この地方の住民なる丁霊族《ていれいぞく》の案内人は李陵の一行を一軒の哀れな丸太|小舎《ごや》へと導いた。小舎の住人が珍しい人声に驚かされて、弓矢を手に表へ出て来た、頭から毛皮を被《かぶ》った鬚《ひげ》ぼうぼうの熊《くま》のような山男の顔の中に、李陵がかつての移中厩監《いちゅうきゅうかん》蘇子卿《そしけい》の俤《おもかげ》を見出してからも、先方がこの胡服《こふく》の大官を前《さき》の騎都尉《きとい》李少卿《りしょうけい》と認めるまでにはなおしばらくの時間が必要であった。蘇武《そぶ》のほうでは陵が匈奴《きょうど》に事《つか》えていることも全然聞いていなかったのである。
 感動が、陵の内に在《あ》って今まで武との会見を避けさせていたもの[#「もの」に傍点]を一瞬圧倒し去った。二人とも初めほとんどものが言えなかった。
 陵の供廻《ともまわ》りどもの穹廬《きゅうろ》がいくつか、あたりに組立てられ、無人の境が急に賑《にぎ》やかになった。用意してきた酒食がさっそく小舎《こや》に運び入れられ、夜は珍しい歓笑の声が森の鳥獣を驚かせた。滞在は数日に亙《わた》った。
 己《おの》が胡服を纏《まと》うに至った事情を話すことは、さすがに辛《つら》かった。しかし、李陵は少しも弁解の調子を交えずに事実だけを語った。蘇武がさりげなく語るその数年間の生活はまったく惨憺《さんたん》たるものであったらしい。何年か以前に匈奴の於※[#「革+干」、49−11]王《おけんおう》が猟をするとてたまたまここを過ぎ蘇武に同情して、三年間つづけて衣服食糧等を給してくれたが、その於※[#「革+干」、49−12]王の死後は、凍《い》てついた大地から野鼠《のねずみ》を掘出して、飢えを凌《しの》がなければならない始末だと言う。彼の生死不明の噂《うわさ》は彼の養っていた畜群が剽盗《ひょうとう》どものために一匹残らずさらわれてしまったことの訛伝《かでん》らしい。陵は蘇武の母の死んだことだけは告げたが、妻が子を棄《す》てて他家へ行ったことはさすがに言えなかった。
 この男は何を目あてに生きているのかと李陵は怪しんだ。いまだに漢に帰れる日を待ち望んでいるのだろうか。蘇武の口うらから察すれば、いまさらそんな期待は少しももっていないようである。それではなんのためにこうした惨憺《さんたん》たる日々をたえ忍んでいるのか? 単于《ぜんう》に降服を申出れば重く用いられることは請合《うけあ》いだが、それをする蘇武《そぶ》でないことは初めから分り切っている。陵の怪しむのは、なぜ早く自《みずか》ら生命を絶たないのかという意味であった。李陵《りりょう》自身が希望のない生活を自らの手で断ち切りえないのは、いつのまにかこの地に根を下《おろ》して了《しま》った数々の恩愛や義理のためであり、またいまさら死んでも格別漢のために義を立てることにもならないからである。蘇武の場合は違う。彼にはこの地での係累《けいるい》もない。漢朝に対する忠信という点から考えるなら、いつまでも節旄《せつぼう》を持して曠野《こうや》に飢えるのと、ただちに節旄を焼いてのち自ら首|刎《は》ねるのとの間に、別に差異はなさそうに思われる。はじめ捕えられたとき、いきなり自分の胸を刺した蘇武に、今となって急に死を恐れる心が萌《きざ》したとは考えられない。李陵は、若いころの蘇武の片意地を――滑稽《こっけい》なくらい強情な痩我慢《やせがまん》を思出した。単于《ぜんう》は栄華を餌《え》に極度の困窮《こんきゅう》の中から蘇武を釣《つ》ろうと試みる。餌につられるのはもとより、苦難に堪《た》ええずして自ら殺すこともまた、単于に(あるいはそれによって象徴される運命に)負けることになる。蘇武はそう考えているのではなかろうか。運命と意地の張合いをしているような蘇武の姿が、しかし、李陵には滑稽や笑止《しょうし》には見えなかった。想像を絶した困苦・欠乏・酷寒・孤独を、(しかもこれから死に至るまでの長い間を)平然と笑殺していかせるものが、意地だとすれば、この意地こそは誠《まこと》に凄《すさま》じくも壮大なものと言わねばならぬ。昔の多少は大人《おとな》げなく見えた蘇武の痩我慢《やせがまん》が、かかる大我慢にまで成長しているのを見て李陵は驚嘆した。しかもこの男は自分の行ないが漢にまで知られることを予期していない。自分がふたたび漢に迎えられることはもとより、自分がかかる無人の地で困苦と戦いつつあることを漢はおろか匈奴《きょうど》の単于にさえ伝えてくれる人間の出て来ることをも期待していなかった。誰にもみとられずに独り死んでいくに違いないその最後の日に、自《みずか》ら顧みて最後まで運命を笑殺しえたことに満足して死んでいこうというのだ。誰一人|己《おの》が事蹟《じせき》を知ってくれなくともさしつかえないというのである。李陵《りりょう》は、かつて先代|単于《ぜんう》の首を狙《ねら》いながら、その目的を果たすとも、自分がそれをもって匈土《きょうど》の地を脱走しえなければ、せっかくの行為が空《むな》しく、漢にまで聞こえないであろうことを恐れて、ついに決行の機を見出しえなかった。人に知られざることを憂えぬ蘇武《そぶ》を前にして、彼はひそかに冷汗の出る思いであった。

 最初の感動が過ぎ、二日三日とたつうちに、李陵の中にやはり一種のこだわりができてくるのをどうすることもできなかった。何を語るにつけても、己《おのれ》の過去と蘇武のそれとの対比がいちいちひっかかってくる。蘇武は義人《ぎじん》、自分は売国奴《ばいこくど》と、それほどハッキリ考えはしないけれども、森と野と水との沈黙によって多年の間鍛え上げられた蘇武の厳《きび》しさの前には己の行為に対する唯一の弁明であった今までのわが苦悩のごときは一溜《ひとたま》りもなく圧倒されるのを感じないわけにいかない。それに、気のせいか、日《ひ》にちが立つにつれ、蘇武の己に対する態度の中に、何か富者が貧者に対するときのような――己の優越を知ったうえで相手に寛大であろうとする者の態度を感じはじめた。どことハッキリはいえないが、どうかした拍子《ひょうし》にひょいとそういうものの感じられることがある。繿縷《ぼろ》をまとうた蘇武の目の中に、ときとして浮かぶかすかな憐愍《れんびん》の色を、豪奢《ごうしゃ》な貂裘《ちょうきゅう》をまとうた右校王《うこうおう》李陵《りりょう》はなによりも恐れた。
 十日ばかり滞在したのち、李陵は旧友に別れて、悄然《しょうぜん》と南へ去った。食糧衣服の類は充分に森の丸木|小舎《ごや》に残してきた。
 李陵は単于《ぜんう》からの依嘱《いしょく》たる降服勧告についてはとうとう口を切らなかった。蘇武《そぶ》の答えは問うまでもなく明らかであるものを、何もいまさらそんな勧告によって蘇武をも自分をも辱《はずかし》めるには当たらないと思ったからである。
 南に帰ってからも、蘇武の存在は一日も彼の頭から去らなかった。離れて考えるとき、蘇武の姿はかえっていっそうきびしく彼の前に聳《そび》えているように思われる。
 李陵自身、匈奴《きょうど》への降服という己《おのれ》の行為をよしとしているわけではないが、自分の故国につくした跡と、それに対して故国の己に酬《むく》いたところとを考えるなら、いかに無情な批判者といえども、なお、その「やむを得なかった」ことを認めるだろうとは信じていた。ところが、ここに一人の男があって、いかに「やむを得ない」と思われる事情を前にしても、断じて、自らにそれは「やむを得ぬのだ」という考えかたを許そうとしないのである。
 飢餓も寒苦も孤独の苦しみも、祖国の冷淡も、己の苦節がついに何人《なんぴと》にも知られないだろうというほとんど確定的な事実も、この男にとって、平生の節義を改めなければならぬほどのやむを得ぬ事情ではないのだ。
 蘇武の存在は彼にとって、崇高な訓誡《くんかい》でもあり、いらだたしい悪夢でもあった。ときどき彼は人を遣《つか》わして蘇武の安否を問わせ、食品、牛羊、絨氈《じゅうせん》を贈った。蘇武をみたい気持と避けたい気持とが彼の中で常に闘っていた。

 数年後、今一度李陵は北海《ほっかい》のほとりの丸木|小舎《ごや》を訪《たず》ねた。そのとき途中で雲中《うんちゅう》の北方を戍《まも》る衛兵《えいへい》らに会い、彼らの口から、近ごろ漢の辺境では太守《たいしゅ》以下|吏民《りみん》が皆白服をつけていることを聞いた。人民がことごとく服を白くしているとあれば天子の喪《も》に相違ない。李陵は武帝《ぶてい》の崩《ほう》じたのを知った。北海の滸《ほとり》に到《いた》ってこのことを告げたとき、蘇武《そぶ》は南に向かって号哭《ごうこく》した。慟哭《どうこく》数日、ついに血を嘔《は》くに至った。その有様を見ながら、李陵はしだいに暗く沈んだ気持になっていった。彼はもちろん蘇武の慟哭の真摯《しんし》さを疑うものではない。その純粋な烈《はげ》しい悲嘆には心を動かされずにはいられない。だが、自分には今一滴の涙も泛《うか》んでこないのである。蘇武は、李陵のように一族を戮《りく》せられることこそなかったが、それでも彼の兄は天子の行列にさいしてちょっとした交通事故を起こしたために、また、彼の弟はある犯罪者を捕ええなかったことのために、ともに責を負うて自殺させられている。どう考えても漢の朝《ちょう》から厚遇されていたとは称しがたいのである。それを知ってのうえで、今目の前に蘇武の純粋な痛哭《つうこく》を見ているうちに、以前にはただ蘇武の強烈な意地とのみ見えたものの底に、実は、譬《たと》えようもなく清洌《せいれつ》な純粋な漢の国土への愛情(それは義とか節とかいう外から押しつけられたものではなく、抑《おさ》えようとして抑えられぬ、こんこんと常に湧出《わきで》る最も親身な自然な愛情)が湛《たた》えられていることを、李陵ははじめて発見した。
 李陵は己《おのれ》と友とを隔てる根本的なものにぶつかっていやでも己《おのれ》自身に対する暗い懐疑に追いやられざるをえないのである。

 蘇武《そぶ》の所から南へ帰って来ると、ちょうど、漢からの使者が到着したところであった。武帝《ぶてい》の死と昭帝《しょうてい》の即位とを報じてかたがた当分の友好関係を――常に一年とは続いたことのない友好関係だったが――結ぶための平和の使節である。その使いとしてやって来たのが、はからずも李陵《りりょう》の故人《とも》・隴西《ろうせい》の任立政《じんりっせい》ら三人であった。
 その年の二月武帝が崩じて、僅《わず》か八歳の太子|弗陵《ふつりょう》が位を嗣《つ》ぐや、遺詔《いじょう》によって侍中奉車都尉《じちゅうほうしゃとい》霍光《かくこう》が大司馬《だいしば》大将軍として政《まつりごと》を輔《たす》けることになった。霍光はもと、李陵と親しかったし、左将軍となった上官桀《じょうかんけつ》もまた陵の故人であった。この二人の間に陵を呼返そうとの相談ができ上がったのである。今度の使いにわざわざ陵の昔の友人が選ばれたのはそのためであった。
 単于《ぜんう》の前で使者の表向きの用が済むと、盛んな酒宴が張られる。いつもは衛律《えいりつ》がそうした場合の接待役を引受けるのだが、今度は李陵の友人が来た場合と
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