ていないようでいて、やっぱり天は見ている。彼は粛然《しゅくぜん》として懼《おそ》れた。今でも、己《おのれ》の過去をけっして非なりとは思わないけれども、なおここに蘇武という男があって、無理ではなかったはずの己の過去をも恥ずかしく思わせることを堂々とやってのけ、しかも、その跡が今や天下に顕彰《けんしょう》されることになったという事実は、なんとしても李陵にはこたえた[#「こたえた」に傍点]。胸をかきむしられるような女々《めめ》しい己の気持が羨望《せんぼう》ではないかと、李陵は極度に惧《おそ》れた。
別れに臨んで李陵は友のために宴を張った。いいたいことは山ほどあった。しかし結局それは、胡《こ》に降《くだ》ったときの己《おのれ》の志が那辺《なへん》にあったかということ。その志を行なう前に故国の一族が戮《りく》せられて、もはや帰るに由なくなった事情とに尽きる。それを言えば愚痴《ぐち》になってしまう。彼は一言もそれについてはいわなかった。ただ、宴|酣《たけなわ》にして堪えかねて立上がり、舞いかつ歌うた。
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径万里兮度沙幕《ばんりをゆきすぎさばくをわたる》
為君将兮奮匈奴《き
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