陵は頭を横にふった。丈夫《じょうふ》ふたたび辱めらるるあたわずと答えた。その言葉がひどく元気のなかったのは、衛律に聞こえることを惧《おそ》れたためではない。

 後五年、昭帝の始元《しげん》六年の夏、このまま人に知られず北方に窮死《きゅうし》すると思われた蘇武《そぶ》が偶然にも漢に帰れることになった。漢の天子が上林苑《じょうりんえん》中で得た雁《かり》の足に蘇武の帛書《はくしょ》がついていた云々《うんぬん》というあの有名な話は、もちろん、蘇武《そぶ》の死を主張する単于《ぜんう》を説破するためのでたらめである。十九年前蘇武に従って胡地《こち》に来た常恵《じょうけい》という者が漢使に遭《あ》って蘇武の生存を知らせ、この嘘《うそ》をもって武《ぶ》を救出《すくいだ》すように教えたのであった。さっそく北海《ほっかい》の上に使いが飛び、蘇武は単于の庭《てい》につれ出された。李陵《りりょう》の心はさすがに動揺した。ふたたび漢に戻れようと戻れまいと蘇武の偉大さに変わりはなく、したがって陵の心の笞《しもと》たるに変わりはないに違いないが、しかし、天はやっぱり見ていたのだという考えが李陵をいたく打った。見
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