》して答えない。しばらく立政《りっせい》を熟視してから、己《おの》が髪を撫《な》でた。その髪も椎結《ついけい》とてすでに中国のふうではない。ややあって衛律が服を更《か》えるために座を退いた。初めて隔てのない調子で立政が陵の字《あざな》を呼んだ。少卿《しょうけい》よ、多年の苦しみはいかばかりだったか。霍子孟《かくしもう》と上官少叔《じょうかんしょうしゅく》からよろしくとのことであったと。その二人の安否を問返す陵のよそよそしい言葉におっかぶせるようにして立政がふたたび言った。少卿よ、帰ってくれ。富貴《ふうき》などは言うに足りぬではないか。どうか何もいわずに帰ってくれ。蘇武《そぶ》の所から戻ったばかりのこととて李陵も友の切なる言葉に心が動かぬではない。しかし、考えてみるまでもなく、それはもはやどうにもならぬことであった。「帰るのは易《やす》い。だが、また辱《はずか》しめを見るだけのことではないか? 如何《いかん》?」言葉半ばにして衛律が座に還《かえ》ってきた。二人は口を噤《つぐ》んだ。
 会が散じて別れ去るとき、任立政はさりげなく陵のそばに寄ると、低声で、ついに帰るに意なきやを今一度尋ねた。
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