て彼も引張り出されて宴につらなった。任立政は陵を見たが、匈奴《きょうど》の大官連の並んでいる前で、漢に帰れとは言えない。席を隔てて李陵を見ては目配せをし、しばしば己《おのれ》の刀環《とうかん》を撫《な》でて暗にその意を伝えようとした。陵はそれを見た。先方の伝えんとするところもほぼ察した。しかし、いかなるしぐさをもって応《こた》えるべきかを知らない。
 公式の宴が終わった後で、李陵・衛律らばかりが残って牛酒と博戯《ばくぎ》とをもって漢使をもてなした。そのとき任立政が陵に向かって言う。漢ではいまや大赦令《たいしゃれい》が降り万民は太平の仁政《じんせい》を楽しんでいる。新帝はいまだ幼少のこととて君が故旧たる霍子孟《かくしもう》・上官少叔《じょうかんしょうしゅく》が主上を輔《たす》けて天下の事を用いることとなったと。立政は、衛律《えいりつ》をもって完全に胡人《こじん》になり切ったものと見做《みな》して――事実それに違いなかったが――その前では明らさまに陵に説くのを憚《はばか》った。ただ霍光《かくこう》と上官桀《じょうかんけつ》との名を挙《あ》げて陵の心を惹《ひ》こうとしたのである。陵は黙《もく
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