《ころくこ》単于というのがこれである。
匈奴《きょうど》の右校王《うこうおう》たる李陵《りりょう》の心はいまだにハッキリしない。母妻子を族滅《ぞくめつ》された怨《うら》みは骨髄《こつずい》に徹しているものの、自《みずか》ら兵を率いて漢と戦うことができないのは、先ごろの経験で明らかである。ふたたび漢の地を踏むまいとは誓ったが、この匈奴の俗に化して終生安んじていられるかどうかは、新単于への友情をもってしても、まださすがに自信がない。考えることの嫌《きら》いな彼は、イライラしてくると、いつも独り駿馬《しゅんめ》を駆って曠野《こうや》に飛び出す。秋天一碧《しゅうてんいっぺき》の下、※[#「口+戛」、第3水準1−15−17]々《かつかつ》と蹄《ひづめ》の音を響かせて草原となく丘陵となく狂気のように馬を駆けさせる。何十里かぶっとばした後、馬も人もようやく疲れてくると、高原の中の小川を求めてその滸《ほとり》に下り、馬に飲《みず》かう。それから己《おのれ》は草の上に仰向《あおむ》けにねころんで快い疲労感にウットリと見上げる碧落《へきらく》の潔《きよ》さ、高さ、広さ。ああ我もと天地間の一粒子《いちりゅ
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