じ》はこれと協力する必要はない。今匈奴が西河《せいが》に侵入したとあれば、汝《なんじ》はさっそく陵を残して西河に馳《は》せつけ敵の道を遮《さえぎ》れ、というのが博徳への詔である。李陵への詔には、ただちに漠北《ばくほく》に至り東は浚稽山《しゅんけいざん》から南は竜勒水《りょうろくすい》の辺までを偵察観望し、もし異状なくんば、※[#「さんずい+足」、第4水準2−78−51]野侯《さくやこう》の故道に従って受降城《じゅこうじょう》に至って士を休めよとある。博徳と相談してのあの上書はいったいなんたることぞ、という烈《はげ》しい詰問《きつもん》のあったことは言うまでもない。寡兵《かへい》をもって敵地に徘徊《はいかい》することの危険を別としても、なお、指定されたこの数千里の行程は、騎馬を持たぬ軍隊にとってははなはだむずかしいものである。徒歩のみによる行軍の速度と、人力による車の牽引《けんいん》力と、冬へかけての胡地《こち》の気候とを考えれば、これは誰にも明らかであった。武帝はけっして庸王《ようおう》ではなかったが、同じく庸王ではなかった隋《ずい》の煬帝《ようだい》や始皇帝《しこうてい》などと共通し
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