の成功と匈奴《きょうど》の敗戦とを望んでいたには違いないが、どうやら左賢王だけは何か負けさせたくないと感じていたらしい。李陵はこれに気がついて激しく己を責めた。
その左賢王に打破られた公孫敖《こうそんごう》が都に帰り、士卒を多く失って功がなかったとの廉《かど》で牢《ろう》に繋《つな》がれたとき、妙な弁解をした。敵の捕虜《ほりょ》が、匈奴軍の強いのは、漢から降《くだ》った李《り》将軍が常々兵を練り軍略を授けてもって漢軍に備えさせているからだと言ったというのである。だからといって自軍が敗《ま》けたことの弁解にはならないから、もちろん、因※[#「木+于」、40−8]《いんう》将軍の罪は許されなかったが、これを聞いた武帝が、李陵に対し激怒したことは言うまでもない。一度許されて家に戻っていた陵の一族はふたたび獄《ごく》に収められ、今度は、陵の老母から妻・子・弟に至るまでことごとく殺された。軽薄なる世人の常とて、当時|隴西《ろうせい》(李陵の家は隴西の出である)の士大夫《したいふ》ら皆李家を出したことを恥としたと記されている。
この知らせが李陵の耳に入ったのは半年ほど後のこと、辺境から拉致《ら
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