ちもなお表現することの歓びだけは生残りうるものだということを、彼は発見した。しかし、そのころになってもまだ、彼の完全な沈黙は破られなかったし、風貌《ふうぼう》の中のすさまじさも全然|和《やわ》らげられはしない。稿をつづけていくうちに、宦者《かんじゃ》とか閹奴《えんど》とかいう文字を書かなければならぬところに来ると、彼は覚えず呻《うめ》き声を発した。独り居室にいるときでも、夜、牀上《しょうじょう》に横になったときでも、ふとこの屈辱の思いが萌《きざ》してくると、たちまちカーッと、焼鏝《やきごて》をあてられるような熱い疼《うず》くものが全身を駈《か》けめぐる。彼は思わず飛上り、奇声を発し、呻きつつ四辺《あたり》を歩きまわり、さてしばらくしてから歯をくいしばって己《おのれ》を落ちつけようと努めるのである。

       三

 乱軍の中に気を失った李陵《りりょう》が獣脂《じゅうし》を灯《とも》し獣糞《じゅうふん》を焚《た》いた単于《ぜんう》の帳房《ちょうぼう》の中で目を覚ましたとき、咄嗟《とっさ》に彼は心を決めた。自《みずか》ら首|刎《は》ねて辱《はずか》しめを免れるか、それとも今一応は敵に
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