きものと思い込む必要があったのである。
五《いつ》月ののち、司馬遷はふたたび筆を執《と》った。歓《よろこ》びも昂奮《こうふん》もない・ただ仕事の完成への意志だけに鞭打《むちう》たれて、傷ついた脚を引摺《ひきず》りながら目的地へ向かう旅人のように、とぼとぼと稿を継いでいく。もはや太史令の役は免ぜられていた。些《いささ》か後悔した武帝が、しばらく後に彼を中書令《ちゅうしょれい》に取立てたが、官職の黜陟《ちゅっちょく》のごときは、彼にとってもうなんの意味もない。以前の論客司馬遷は、一切口を開かずなった。笑うことも怒ることもない。しかし、けっして悄然《しょうぜん》たる姿ではなかった。むしろ、何か悪霊《あくりょう》にでも取り憑《つ》かれているようなすさまじさ[#「すさまじさ」に傍点]を、人々は緘黙《かんもく》せる彼の風貌《ふうぼう》の中に見て取った。夜眠る時間をも惜しんで彼は仕事をつづけた。一刻も早く仕事を完成し、そのうえで早く自殺の自由を得たいとあせっているもののように、家人らには思われた。
凄惨《せいさん》な努力を一年ばかり続けたのち、ようやく、生きることの歓《よろこ》びを失いつくしたの
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