れない人間同士のような宿命的な因縁《いんねん》に近いものと、彼自身には感じられた。とにかくこの仕事のために自分は自らを殺すことができぬのだ(それも義務感からではなく、もっと肉体的な、この仕事との繋《つな》がりによってである)ということだけはハッキリしてきた。
 当座の盲目的な獣の呻《うめ》き苦しみに代わって、より[#「より」に傍点]意識的な・人間[#「人間」に傍点]の苦しみが始まった。困ったことに、自殺できないことが明らかになるにつれ、自殺によってのほかに苦悩と恥辱とから逃れる途《みち》のないことがますます明らかになってきた。一個の丈夫《じょうふ》たる太史令《たいしれい》司馬遷《しばせん》は天漢《てんかん》三年の春に死んだ。そして、そののちに、彼の書残した史をつづける者は、知覚も意識もない一つの書写機械にすぎぬ、――自らそう思い込む以外に途《みち》はなかった。無理でも、彼はそう思おうとした。修史の仕事は必ず続けられねばならぬ。これは彼にとって絶対であった。修史の仕事のつづけられるためには、いかにたえがたくとも生きながらえねばならぬ。生きながらえるためには、どうしても、完全に身を亡《な》
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