今なお耳底《じてい》にある。しかし、今|疾痛《しっつう》惨怛《さんたん》を極《きわ》めた彼の心の中に在《あ》ってなお修史の仕事を思い絶たしめないものは、その父の言葉ばかりではなかった。それは何よりも、その仕事そのものであった。仕事の魅力とか仕事への情熱とかいう怡《たの》しい[#「しい」に傍点]態《てい》のものではない。修史という使命の自覚には違いないとしてもさらに昂然《こうぜん》として自らを恃《じ》する自覚ではない。恐ろしく我《が》の強い男だったが、今度のことで、己《おのれ》のいかにとるに足らぬものだったかをしみじみと考えさせられた。理想の抱負のと威張《いば》ってみたところで、所詮《しょせん》己は牛にふみつぶされる道傍《みちばた》の虫けらのごときものにすぎなかったのだ。「我[#「我」に傍点]」はみじめに踏みつぶされたが、修史という仕事の意義は疑えなかった。このような浅ましい身と成り果て、自信も自恃《じじ》も失いつくしたのち、それでもなお世にながらえてこの仕事に従うということは、どう考えても怡《たの》しいわけはなかった。それはほとんど、いかにいとわしくとも最後までその関係を絶つことの許さ
前へ 次へ
全89ページ中47ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
中島 敦 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング