辱が追立てるのだから死をおそれる気持は全然なかった。なぜ死ねなかったのか? 獄舎の中に、自らを殺すべき道具のなかったことにもよろう。しかし、それ以外に何かが内から彼をとめる。はじめ、彼はそれがなんであるかに気づかなかった。ただ狂乱と憤懣《ふんまん》との中で、たえず発作《ほっさ》的に死への誘惑を感じたにもかかわらず、一方彼の気持を自殺のほうへ向けさせたがらないものがあるのを漠然《ばくぜん》と感じていた。何を忘れたのかはハッキリしないながら、とにかく何か忘れものをしたような気のすることがある。ちょうどそんなぐあいであった。
 許されて自宅に帰り、そこで謹慎《きんしん》するようになってから、はじめて、彼は、自分がこの一《ひと》月狂乱にとり紛《まぎ》れて己《おの》が畢生《ひっせい》の事業たる修史《しゅうし》のことを忘れ果てていたこと、しかし、表面は忘れていたにもかかわらず、その仕事への無意識の関心が彼を自殺から阻《はば》む役目を隠々《いんいん》のうちにつとめていたことに気がついた。
 十年前|臨終《りんじゅう》の床《とこ》で自分の手をとり泣いて遺命《いめい》した父の惻々《そくそく》たる言葉は、
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