》。常ニ幸セラレテ従フ。駿馬《しゅんめ》名ハ騅《すい》、常ニ之《これ》ニ騎ス。是《ここ》ニ於《おい》テ項王|乃《すなわ》チ悲歌|慷慨《こうがい》シ自ラ詩ヲ為《つく》リテ曰《いわ》ク「力山ヲ抜キ気世ヲ蓋《おお》フ、時利アラズ騅|逝《ゆ》カズ、騅逝カズ奈何《いかん》スベキ、虞ヤ虞ヤ若《なんじ》ヲ奈何《いか》ニセン」ト。歌フコト数|※[#「門<癸」、第3水準1−93−53]《けつ》、美人之ニ和ス。項王|泣《なみだ》数行下ル。左右皆泣キ、能《よ》ク仰ギ視《み》ルモノ莫《な》シ……。
 これでいいのか? と司馬遷は疑う。こんな熱に浮かされたような書きっぷりでいいものだろうか? 彼は「作ル」ことを極度に警戒した。自分の仕事は「述ベル」ことに尽きる。事実、彼は述べただけであった。しかしなんと生気|溌剌《はつらつ》たる述べ方であったか? 異常な想像的視覚を有《も》った者でなければとうてい不能な記述であった。彼は、ときに「作ル」ことを恐れるのあまり、すでに書いた部分を読返してみて、それあるがために史上の人物が現実の人物のごとくに躍動すると思われる字句を削る。すると確かにその人物はハツラツたる呼吸を止《や
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