に思われた。
 漢が天下を定めてからすでに五代・百年、始皇帝《しこうてい》の反文化政策によって湮滅《いんめつ》しあるいは隠匿《いんとく》されていた書物がようやく世に行なわれはじめ、文[#「文」に白丸傍点]の興《おこ》らんとする気運が鬱勃《うつぼつ》として感じられた。漢の朝廷ばかりでなく、時代が、史[#「史」に白丸傍点]の出現を要求しているときであった。司馬遷《しばせん》個人としては、父の遺嘱《いしょく》による感激が学殖・観察眼・筆力の充実を伴ってようやく渾然《こんぜん》たるものを生み出すべく醗酵《はっこう》しかけてきていた。彼の仕事は実に気持よく進んだ。むしろ快調に行きすぎて困るくらいであった。というのは、初めの五帝本紀《ごていほんぎ》から夏殷周秦《かいんしゅうしん》本紀あたりまでは、彼も、材料を按排《あんばい》して記述の正確厳密を期する一人の技師に過ぎなかったのだが、始皇帝を経て、項羽《こうう》本紀にはいるころから、その技術家の冷静さが怪しくなってきた。ともすれば、項羽が彼に、あるいは彼が項羽にのり移りかねないのである。
 項王|則《すなわ》チ夜起キテ帳中ニ飲ス。美人有リ。名ハ虞《ぐ
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