軍の信頼を繋《つな》ぐに足る将帥《しょうすい》としては、わずかに先年|大宛《だいえん》を遠征して武名を挙《あ》げた弐師《じし》将軍|李広利《りこうり》があるにすぎない。
その年――天漢二年夏五月、――匈奴《きょうど》の侵略に先立って、弐師将軍が三万騎に将として酒泉《しゅせん》を出た。しきりに西辺を窺《うかが》う匈奴の右賢王《うけんおう》を天山に撃とうというのである。武帝は李陵に命じてこの軍旅の輜重《しちょう》のことに当たらせようとした。未央宮《びおうきゅう》の武台殿《ぶだいでん》に召見された李陵は、しかし、極力その役を免ぜられんことを請うた。陵は、飛将軍《ひしょうぐん》と呼ばれた名将|李広《りこう》の孫。つとに祖父の風ありといわれた騎射《きしゃ》の名手で、数年前から騎都尉《きとい》として西辺の酒泉《しゅせん》・張掖《ちょうえき》に在《あ》って射《しゃ》を教え兵を練っていたのである。年齢もようやく四十に近い血気盛りとあっては、輜重《しちょう》の役はあまりに情けなかったに違いない。臣が辺境に養うところの兵は皆|荊楚《けいそ》の一騎当千の勇士なれば、願わくは彼らの一隊を率いて討って出《い》
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