たいしれい》・司馬遷《しばせん》が君前を退くと、すぐに、「全躯保妻子《くをまっとうしさいしをたもつ》の臣」の一人が、遷《せん》と李陵《りりょう》との親しい関係について武帝の耳に入れた。太史令は故《ゆえ》あって弐師《じし》将軍と隙《げき》あり、遷が陵を褒《ほ》めるのは、それによって、今度、陵に先立って出塞《しゅっさい》して功のなかった弐師将軍を陥《おとしい》れんがためであると言う者も出てきた。ともかくも、たかが星暦卜祀《せいれきぼくし》を司《つかさど》るにすぎぬ太史令の身として、あまりにも不遜《ふそん》な態度だというのが、一同の一致した意見である。おかしなことに、李陵の家族よりも司馬遷のほうが先に罪せられることになった。翌日、彼は廷尉《ていい》に下された。刑は宮《きゅう》と決まった。
 支那《しな》で昔から行なわれた肉刑《にくけい》の主《おも》なるものとして、黥《けい》、※[#「鼻+りっとう」、第3水準1−14−65]《ぎ》(はなきる)、※[#「非+りっとう」、第4水準2−3−25]《ひ》(あしきる)、宮《きゅう》、の四つがある。武帝の祖父・文帝《ぶんてい》のとき、この四つのうち三つまで
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