は廃せられたが、宮刑《きゅうけい》のみはそのまま残された。宮刑とはもちろん、男を男でなくする奇怪な刑罰である。これを一に腐刑《ふけい》ともいうのは、その創《きず》が腐臭を放つがゆえだともいい、あるいは、腐木《ふぼく》の実を生ぜざるがごとき男と成り果てるからだともいう。この刑を受けた者を閹人《えんじん》と称し、宮廷の宦官《かんがん》の大部分がこれであったことは言うまでもない。人もあろうに司馬遷《しばせん》がこの刑に遭《あ》ったのである。しかし、後代の我々が史記《しき》の作者として知っている司馬遷は大きな名前だが、当時の太史令《たいしれい》司馬遷は眇《びょう》たる一文筆の吏《り》にすぎない。頭脳の明晰《めいせき》なことは確かとしてもその頭脳に自信をもちすぎた、人づき合いの悪い男、議論においてけっして他人《ひと》に負けない男、たかだか強情我慢の偏窟人《へんくつじん》としてしか知られていなかった。彼が腐刑《ふけい》に遇《あ》ったからとて別に驚く者はない。
 司馬氏は元《もと》周《しゅう》の史官であった。後、晋《しん》に入り、秦《しん》に仕え、漢《かん》の代となってから四代目の司馬談《しばたん》
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