じん》ばらが、この陵の一失《いっしつ》を取上げてこれを誇大|歪曲《わいきょく》しもって上《しょう》の聡明を蔽《おお》おうとしているのは、遺憾《いかん》この上もない。そもそも陵の今回の軍たる、五千にも満たぬ歩卒を率いて深く敵地に入り、匈奴《きょうど》数万の師を奔命《ほんめい》に疲れしめ、転戦千里、矢尽き道|窮《きわ》まるに至るもなお全軍|空弩《くうど》を張り、白刃《はくじん》を冒して死闘している。部下の心を得てこれに死力を尽くさしむること、古《いにしえ》の名将といえどもこれには過ぎまい。軍敗れたりとはいえ、その善戦のあとはまさに天下に顕彰するに足る。思うに、彼が死せずして虜《ろ》に降《くだ》ったというのも、ひそかにかの地にあって何事か漢に報いんと期してのことではあるまいか。……
並いる群臣は驚いた。こんなことのいえる男が世にいようとは考えなかったからである。彼らはこめかみを顫《ふる》わせた武帝の顔を恐る恐る見上げた。それから、自分らをあえて全躯保妻子《くをまっとうしさいしをたもつ》の臣と呼んだこの男を待つものが何であるかを考えて、ニヤリとするのである。
向こう見ずなその男――太史令《
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