》かれていた。漢の勢威の絶頂に当たって五十余年の間君臨したこの大皇帝は、その中年以後ずっと、霊魂の世界への不安な関心に執拗《しつよう》につきまとわれていた。それだけに、その方面での失望は彼にとって大きな打撃となった。こうした打撃は、生来|闊達《かったつ》だった彼の心に、年とともに群臣への暗い猜疑《さいぎ》を植えつけていった。李蔡《りさい》・青霍《せいかく》・趙周《ちょうしゅう》と、丞相《じょうしょう》たる者は相ついで死罪に行なわれた。現在の丞相たる公孫賀《こうそんが》のごとき、命を拝したときに己《おの》が運命を恐れて帝の前で手離しで泣出したほどである。硬骨漢《こうこつかん》汲黯《きゅうあん》が退いた後は、帝を取巻くものは、佞臣《ねいしん》にあらずんば酷吏《こくり》であった。
 さて、武帝は諸重臣を召して李陵の処置について計った。李陵の身体は都にはないが、その罪の決定によって、彼の妻子|眷属《けんぞく》家財などの処分が行なわれるのである。酷吏として聞こえた一|廷尉《ていい》が常に帝の顔色を窺《うかが》い合法的に法を枉《ま》げて帝の意を迎えることに巧みであった。ある人が法の権威を説いてこれ
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